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八戸市丹後平古墳群と三累環頭太刀

 投稿者:オリエント部会  投稿日:2018年12月15日(土)22時12分7秒
  以前の報告の追加です。
当古墳群から出土(1987年)した獅噛三累環頭太刀の柄頭に「黄銅」(真鍮)が使われていたという報告ですが、八戸市によれば、柄木は放射線炭素年代測定により「7世紀後半」と判断されてます。又、一緒に出土した蕨手刀11本があります。
律令制は近畿地方を中心に8世紀の確立とすると、これらの出土品は律令とは関係ない、独立した政権があったことを示すのではないでしょうか。
すなわち、飛鳥朝が百済系であるのに対し、新羅系+蝦夷系では?

12月11日の朝日新聞には「地方発 考古学に新説の芽」と題し、徳島の弥生時代中期末の鍛冶炉跡、山形県南陽市に推定161mの前方後円墳(中世の城跡とみられていた)の可能性があるとの南陽市教の報告が付帯され、通説とはやや違う発見が報告されています。
 
 

「倭奴国」と「狗奴国」

 投稿者:玉枕  投稿日:2018年12月15日(土)21時44分52秒
編集済
  akaosa様

後漢代における「倭奴国」の朝貢、印綬、中国王朝から「王」と認められた。そして、その国が「倭国極南界」と書かれている。倭人伝では女王国の境界の南に「狗奴国」があると書かれている。後漢代に朝貢したのは、「狗奴国」ではないか、そうなると志賀島から見つかった金印の真贋論争も絡む問題なるとのご指摘、興味深く拝見しました。

確かに、九州島の中・南部に存在したとみられている「狗奴国」。この国にも王がいた。考古学資料からみると、九州島には古来、縄文文化は中九州を核として誕生しており、有明海、不知火海を港湾として海の民が早くから活躍していた地盤と理解できると思います。

半島からの外来文化=支石墓も九州島の西南沿岸部に分布しており、長崎や熊本まで点在しているようです。熊本の人吉盆地には弥生時代には免田式土器という弥生時代の中で優品とされる土器が製作されていた場所。この熊本の“免田式土器”の広がりと、北部九州の今山の“石包丁”の広がりが九州島を南北に分けていたと感じています。そう言う地盤から「狗奴国」と言うまとまりが誕生したと考えています。

しかし、そうであっても、考古資料を見ると、前漢鏡や後漢鏡、楽浪土器がたくさん見つかっているのは北部九州地域。この地域が大陸や半島の先進文化を享受していたことが窺えます。九州中・南部勢力が朝貢と言う交渉をもったにしては、外来文化の移入があまり見えないように思います。

やはり「倭奴国」と「狗奴国」は別の国ではないかと考えています。「倭奴国」は玄海灘沿岸地域にあって、後漢の光武帝の即位に合わせて、朝賀している。情報をもっていた国だったと思います。そしてこの国を「倭の極南界」に位置していたとされているのは、半島南端部、狗邪韓国を「その北岸」と表示し、対馬・壱岐と海を渡り、九州島に着いた場所を「その南端」とみる認識が倭人=海民の活動に重なっていたのではないかと考えています。(倭に向かう船は、北は狗邪韓国~南は北部九州へ)浅はかな思考かもしれませんが、そんなことを考えています。
 

倭の極南界はどこか

 投稿者:akaosa  投稿日:2018年12月15日(土)00時07分45秒
編集済
  玉枕様

ご意見をありがとうございます。

>“万二千余里”は常套句、帯方郡から女王の都までは実際の里数は換算できていないのではないかと思います。行っていないので里数で表現することは出来なかったはずです。

私も同じ考えです。ただ、陳寿は「其の道里を計るに」と実距離を把握した表現をしており、次のことに気が付きました。倭人伝冒頭に
・舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。
漢の時に朝見する者有り、とあります。陳寿は漢時代の記録を読んでいたのではないか。

そこで想起されるのが、『後漢書』(5世紀)東夷列伝にいう「建武中元二(57)年、倭奴国奉貢朝賀、使人自称大夫、倭国之極南界也。光武賜以印綬」です。

問題は「倭国の極南界」にある「倭奴国」です。これは倭語の国名を表記したものであり、「倭の奴国」と字義により分解して読むことは文脈を無視したものでしょう。

また、倭人伝では、
・次有奴國。此女王境界所盡。其南有狗奴國。男子爲王。其官有…不屬女王。
とあり、狗奴国は倭国の極南界に当たります。

つまり、漢時代の「倭奴国」(音はイヌ国か)は魏時代の「狗奴国」(音はクヌ国、狗はイヌの意)にあたる可能性が高く、印綬を賜うほどの往来があったわけですから、狗奴国までの里数を漢の時代に把握していたと考えられます。

先に掲げた倭人伝の文言に続いて記されるのが
・自郡至女王國、萬二千餘里。
です。この「女王国」とは、女王の境界の尽きる所まで、言い換えれば女王に属する国をいい、それと対比して女王に属さない狗奴国の記録が記されていると考えられます。狗奴国の北端は女王に属する国の南端になります。

気になるのは、志賀島の金印の印譜ですが、福岡地方が「倭の極南界」に該当するでしょうか。金印の真贋論争にも絡む問題と思われます。
 

RE:「魏志倭人伝を漢文として読む」

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2018年12月14日(金)19時20分25秒
編集済
  >投馬国と邪馬壹国は里数でなく日数を示し、戸数にも他国の「有」でなく「可」(伝聞)が用いられている。これは、郡使が伊都国に留まっており、水行、陸行等の情報は倭人から得たと考えられます。つまり、「水行十日陸行一月」は伊都国からの所要日数を示すことになります。

> 何かご質問があればお願いします。

*質問に代えて、疑問提起させていただきます。

・魏使が伊都國までしか来ていない、のは同意見です。
・「伊都國」から先は投馬國と邪馬壹國への所要日数=水行二十日とされています。
・当然ながら、奴國と不彌國へも郡使は行っていない、のでは?
∴文脈から、水行十日陸行一月は、魏使が辿った所要日数と読めます。即ち、郡から伊都國までの萬五百里、の所要日数と。
・その内、郡使が辿った「倭地」の総延長=「倭地参問倭地…周旋可五千餘里 」です。
・この内訳=拘邪韓國領域・千五百里(逆算)+海峡横断・三千餘里 +末盧國~伊都國・五百里。
故に、萬二千餘里の所要日数=水行十日陸行一月+水行二十日、となるのではないでしょうか。
・先の水行十日=朝鮮半島西岸南下(郡治の領域のみ。韓地は陸行)+海峡横断=海洋。
・後の水行二十日=内陸=河川、と使い分けているのではないでしょうか。
*水行二十日=伊都國(三雲遺跡)~瑞梅寺川~今津湾~博多湾~御笠川遡上(閘門式)で源流近く~船毎担いで(「只越」)宝満川へ~筑後川~有明海~矢部川遡上=八女福島(投馬國)。
*「邪馬壹國」への明確な記述がないのは、投馬國が「邪馬壹國」以北=東西に並んでいる=等距離だからか、と。
筑後川~巨瀬川遡上~うきは市(旧・浮羽町)=卑弥呼の居所=「邪馬壹國」。


※以上、文脈と行間を読むことに拠り辿り着けるのではないでしょうか。自説開陳に成りました。
 

本年度の会員研究発表会

 投稿者:玉枕  投稿日:2018年12月14日(金)11時52分3秒
編集済
  akaosa様から会員研究発表会でのご自身の研究内容の提示がありました。出席していない、又、できない会員にとって、どのような発表があり、どのようなことが話合われているのか興味のあるところです。

今月号の会報の「ホームページ動向」と言う蘭に残念なこととして、「催事の話題で当会主催の話題は盛り上がらず、別の団体の催事の話題が盛り上がっていることです。」と述べられています。私もつい、他での活動をここに書き込んでいるので、「どうかな?」と少し躊躇の気持ちをもっていました。共有できる情報があればとの思いでした。

前置きが長くなりました。akaosa様が投げかけている倭人伝における通説についてです。
私は文献史料の研究には疎いですが、倭人伝は当時の日本列島の様相を書いている中国史料として興味を持っています。人さまの研究にコメントをする力はありませんが、倭人伝を読んだときの印象は、その後、色々な説を聞きますが、あまり変わっていない自分を感じています。

akaosa様が指摘されている「到」と「至」、「有」と「可」の違い、「里数表記」と「日数表記」はまさに同じように私も理解しました。
「到」郡使の到着=その土地に足を下した、滞在した“狗邪韓国” “伊都国”
「至」は港湾に滞在した程度、そこに行くには、などに使用されている。

「有」と「可」もご指摘通りと思います。
「里数」と「日数」も実際に体験した距離観と、伝聞による情報=倭人の距離感。

問題は「女王の都する所、水行十日陸行一月」は文面からはご指摘のように伊都国から女王の都の場所へ行くには、「水行で10日、陸行では1ヶ月くらいかかる」と私は読んでいました。

“万二千余里”は常套句、帯方郡から女王の都までは実際の里数は換算できていないのではないかと思います。行っていないので里数で表現することは出来なかったはずです。
それゆえ、これをもとに引き算してみたり、“水行十日陸行一月”に対比することは意味がないと考えています。
 

「魏志倭人伝を漢文として読む」

 投稿者:akaosa  投稿日:2018年12月13日(木)23時07分8秒
編集済
  一週間ほど前にオリエント学会様が、エールを送ってくださいました。ありがとうございました。

ご指摘の件は、11月25日の東アジアの古代文化を考える会の会員研究発表会で、「魏志倭人伝を漢文として読む」と題して発表したものです。

発端は、通説への疑問です。
①「郡自り女王国に至る、万二千余里」の里数は、「南、邪馬壹国に至る。女王の都する所、水行十日陸行一月」の日数と等値とされている。だが、原文では200字以上の文言が挟まっている。

②狗邪韓国:対海国:一大国:末盧国の間はそれぞれ「千余里」と記すが、一般に「千余里」=「一日の航海」とされる。では、なぜ「水行一日」と記さなかったのか。

③倭人は「鯨面文身」と認識されているが、「倭地温暖」の部分で「朱丹を以って其の身体に塗ること、中国の粉を用いるが如し」とある。鯨面文身と朱丹を身体に塗るのは明らかに異なる文化・風俗ではないか。

④卑弥呼が死した後「更えて、男王立つ」とある。この男王については、卑弥呼の弟とか倭国内の王であろうとされる。だが、新男王に「国中、服さず。更に相誅殺す」と、なぜ殺しあうのだろうか。

これらを明確にするため、予断を排して漢文を読み進めました。
一例として、①に関連したところの要点を示します。
・ 始「度一海」、千餘里、「至」對海國。其大官曰…「有」千余戸…乖船南北市糴。
・ 又南「渡一海」、千餘里、名曰瀚海、「至」一大國。官亦曰…「有」三千許家…亦南北市糴。
・ 又「渡一海」、千餘里、「至」末盧國。「有」四千餘戸…水無深淺皆沈没取之。
・ 東南「陸行」、五百里、「到」伊都國。官曰…「有」千余戸。世有王、皆「統属」女王國。郡使往來「常所駐」。

この4行は、「(方角)+動詞+距離+至・国名」の構文で、連続移動を示す「又」で接続しています。続いて、

・ 東南「至」奴國、百里。官曰…「有」二萬餘戸。
・ 東行「至」不彌國、百里。官曰…「有」千餘家。
・ 南「至」投馬國、水行二十日。官曰…「可」五萬餘戸。
・ 南「至」邪馬壹國、女王之所都。水行十日陸行一月。官有…「可」七萬餘戸。

この4行は、「方角+至・国名+距離(所要日数)」の構文。移動の動詞がなく、先の4行と語順が異なり、連続性を示す接続詞もない。つまり、ある地点からの「ある方角に、ある国が有り、距離は…」を示す並列表現であり、方角の起点は郡使が常に駐留する伊都国とするのが文脈の流れとなります。

しかも、投馬国と邪馬壹国は里数でなく日数を示し、戸数にも他国の「有」でなく「可」(伝聞)が用いられている。これは、郡使が伊都国に留まっており、水行、陸行等の情報は倭人から得たと考えられます。つまり、「水行十日陸行一月」は伊都国からの所要日数を示すことになります。

何かご質問があればお願いします。必要があれば討論室に移ります。
 

ガラス小玉鋳型片はガラスの研磨皿!!!

 投稿者:サントバーボロ  投稿日:2018年12月13日(木)21時13分57秒
  江戸東京は物館で行われた《玉展》で購入した説明書《玉 古代を彩る至宝》P76の写真を見て驚いた。
薬師堂東遺跡跡出土の<ガラス玉鋳型>は現在のレンズ加工工程の中で光学ガラスの研磨用で使用する<ガラス研磨皿>の原型であることに驚いた。

ガラス材料を松脂で皿の穴にに貼り付けてこの皿の上全面に<平板な皿石>あるいは適当な工具で研磨剤を使用すれば立派なガラスの研磨ができる。
これに見合った研磨用の皿石、あるいは工具があったはずである。

かなり高度な熟練技術がすでにあったことが推定できることに驚きました。
これによりガラスの研磨が当時でもかなり高度に技巧的に行ったことが分かる。
 

文化人類学会台湾研究会の案内1月26日

 投稿者:サントバーボロ  投稿日:2018年12月12日(水)11時25分37秒
  日本文化人類学会で慶応大学にて特別研究会をします。興味深いものがあります。


第5回日本文化人類学会国際シンポジウム「東アジアにおける人類学の国際化/
グローバル化:第三部 台湾と日本」

趣旨:

 東アジアにおける人類学の国際化/グローバル化について、今年度は台湾と日
本に焦点を当てて考えます。
 台湾の人類学は、その草創期においては、日本植民地下における台湾総督府や
台北帝国大学所属の研究者などによって主導され、その成果の中には、今日にお
いても貴重なものとして、その輝きを失っていないものが見られます。しかし、
日本の敗戦によって、日本が撤退すると、学問の世界の主導者は中国大陸から渡
ってきた中国人にとってかわられ、また戦後に教育を受けた世代の研究者たちは、
そのほとんどがアメリカ、ヨーロッパに留学して研究を進めたため、学問のスタ
イルは一変しました。
 他方、戦後長い間、台湾の人類学界は、研究対象としては台湾研究が中心とな
り、ごく一部海外の華僑華人研究や、太平洋地域・中国大陸の民族学的研究がな
されました。戦後、台湾を再び訪れることができるようになった日本の研究者た
ちも、日本時代に収集された史資料と欧米の理論や長期現地調査の手法を活用し
つつ、台湾研究を行いました。
 しかし、1990年代ころより、台湾においても、台湾以外をフィールドとした人
類学的な研究が勃興してきています。研究のテーマもかつてのような伝統社会研
究から、グローバル化を踏まえた様々な新しい研究領域に広がっており、また日
本以上に社会との連携を切り開いていく実践的なスタイルを模索するようになっ
ています。
 そこで、今回のシンポジウムでは、最近の研究動向を踏まえた台湾の人類学の
現状を2名の気鋭の研究者にご報告いただきます。そのうえで、今後の台湾と日
本の学術交流を、従来の台湾を中心的な対象としてきた研究に止まらない、より
グローバルな地域、トピックに対する共同研究に広げていく可能性を模索する機
会としたいと思います。

日時: 2019年1月26日(土)13:30~17:30

会場: 慶應義塾大学三田キャンパス 北館ホール(北館1階)

アクセス: https://www.keio.ac.jp/ja/maps/mita.html

主催: 日本文化人類学会

共催: 慶應義塾大学人類学研究会、東アジア人類学研究会、仙人の会

使用言語: 日本語、英語、中国語

プログラム:

総合司会 西村一之(日本女子大学准教授)

13:30
開会挨拶: 清水展 (日本文化人類学会会長・関西大学特別任用教授)

13:40-13:50
趣旨説明: 三尾裕子(慶應義塾大学教授)

13:50-14:40(発表40分、質疑10分)
林承緯(台北芸術大学 副教授)「台湾における『日本研究』の現状と課題」

14:40-15:30(発表40分、質疑10分)
Guo Peiyi(郭佩宜)(中央研究院民族学研究所副研究員)「Pacific Studies and Comparative Austronesian Studies in Taiwan」

15:30-15:50
休憩

15:50-17:30
コメントとディスカッション(コメント一人10分×4人+フロアとのディスカッシ
ョン60分)
コメンテータ 黄智慧(中央研究院民族学研究所研究助理)
              上水流久彦(県立広島大学准教授)
             飯高伸五(高知県立大学准教授)
              窪田幸子(神戸大学教授)

本シンポジウムに関する問い合わせ先:

    日本文化人類学会事務局
    〒108-0073 東京都港区三田2-1-1-813
    TEL: 03-5232-0920
    E-mail: hoya@jasca.org

本シンポジウムは、独立行政法人日本学術振興会平成29年度科学研究費助成事業
(科学研究費補助金)(研究成果公開促進費)(JSPS科研費JP16HP3004)の助成
を受けて実施されます。

 

三累環頭太刀について

 投稿者:オリエント部会  投稿日:2018年12月11日(火)08時57分3秒
  私は一年前、慶州博物館にてみごとな黄金の三累環頭太刀を見て、驚きました。
この剣は東国に多く出土しているもので(勿論、黄金ではないですが)今回、八戸市で「獅噛三累環頭太刀」の柄頭の一部に「黄銅」(真鍮製)が使われていたというシンポジウムでの発表がありました。
以前にも報告させていただきました「中央を介さない半島とのダイレクトルート」を東北大学の藤澤教授も語っています。
このことは、慶州博物館の太刀を見れば予想がつくはずなのですが、古代の専門家(特に中央史観のひとたち)は気づかなかったのでしょうか。
 

玉げた謎の頸飾

 投稿者:いとな  投稿日:2018年12月10日(月)14時13分3秒
  サントバーバロさんからご投稿のあった「古代を彩る至宝(玉)展」は私もギリギリセーフで間に合いました。
(昨日まで開催)於て江戸東京博物館 主催:古代歴史文化協議会

PRがイマイチであった割には中味は濃く、その中で一番驚いたのは「伝福岡市周船寺出土・ヒスイ製勾玉付金鎖頸飾」でした。
5個のヒスイをあしらった金鎖の細かな細工は、素人目にも優品であることが分かります。5世紀代の新羅における形式・技法で
作られたとのことです。重要文化財となっています。国宝でもおかしくない、と思いますが、やはり出処不明が響いているのでしょう。

さっそく説明係の学芸員氏に詳細を聞き出そうとしましたが「周船寺近辺の古墳から出たもので(おそらく盗掘品)古物商を通じて
白鶴美術館に入った、と聞いている」ということで、それ以上詳しいことは分かりませんでした。
後で西谷先生に照会したところご存じなく、専門家の中でもあまり知られていない実態が判明しました。
(ネットで調べている最中に、ある好事家が白鶴美術館でもあまり展示する機会がなく、今回東京での公開を機に上京する」との書き込み
もありました)

昨日から、本やネットで、その出自を探っていましたが、どうやら有力な候補が浮かんできました。
「周船寺=すせんじ」は古くは「主船司」であり、船の関係を司る役所が置かれていたのです。
古代には今津湾がずっと南へ湾入しており、その海辺にあったのです。今は福岡市となっていますが、昔は伊都国の領域です。
周船寺周辺には幾つか古墳がありますが、その中で最大(全長85m。これでも福岡市内では最大)の前方後円墳である丸隈山古墳が有力候補と
して浮かんできました。
5世紀前半の築造で初期横穴式石室(竪穴系横口式石室)を有する古墳として有名です。
筑前国続風土記によれば、寛永6年(1625年)に地元の村人が発掘に及び、銅鏡(2)、刀、鉄鏃、巴形銅器、剣、と共に勾玉、管玉が出ています。
おそらく、その際に不心得者が頸飾を隠匿したものではないでしょうか。
この時代(5世紀・倭の五王時代)倭王権は親百済路線一辺倒であり、新羅との交流主体は北部九州豪族であったと考えていますが、皇南大塚(南墳)
という新羅王族の頸飾に匹敵するような見事な品を、丸隈山古墳の被葬者が持っていたという事実?は、改めてその結びつきの深さを感じさせます。

展示会場で当該品の撮影は不可となっていましたので、白鶴美術館のサイトにあった写真を討論室にアップしておきました。ご覧ください。

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