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ReRe:日食のシミュレーション

 投稿者:万事一滴  投稿日:2019年 2月20日(水)18時04分5秒
編集済
   橘さま

 記紀に依拠して歴史を論ずるこれまでの方法への精一杯の皮肉表現の心算でした。
 学たろうとすれば、いつまでも、無視では通らないのではないでしょうか。

 貴兄のお取り組みへのエールを一ひねりした表現の心算でした。
 其角だったかの一句の心境です。

 おうおうと呼べど応えぬ雪の門

 
 

万事一滴様

 投稿者:  投稿日:2019年 2月20日(水)15時14分1秒
  万事一滴様
無視って?私はしてないですが。
他の人が無視ってことですか?
別にかまわないです。万事一滴様に見ていただけたら
いいのです。私の考えに賛成、反対は別にして、こういう
研究をしてる人がいたと記憶していただくだけでいいのです。
 

Re:日食のシミュレーション

 投稿者:万事一滴  投稿日:2019年 2月20日(水)12時06分31秒
編集済
  橘さま

ご喚起に深謝いたします。

これでは言い逃れは不能と、腹はくくられての無視でしょうか。
いつまでも無視では通らなくなっているのではないでしょうか。

 
 

万事一滴様

 投稿者:  投稿日:2019年 2月20日(水)10時13分44秒
     万事一滴様
討論室の記紀へ、日食のシュミレーションのせておきました。
お時間ありましたらご覧ください。
 

RE 続・音国の謎

 投稿者:ピクポポデミ  投稿日:2019年 2月19日(火)12時15分31秒
  >「伊都国」の「伊都」は、その観点からは明らかに「卑字」ではありません。「都」などは、好字の部類でしょう。

そうすると好古都も好字でよいのでしょうか。
他にも少なからず好字が現れるようですが?
卑字説の人は、卑字で書かれていると言いながら、そう思えない文字が現れると、その都度理由を考えるようですが、それが論と言えるのでしょうか。
 

伊都国

 投稿者:当世奇妙  投稿日:2019年 2月19日(火)11時44分10秒
編集済
  石見介さんへ

久しぶりに倭人伝論争で記憶をよみがらせています。

確かに背振山地は巨大な山脈ではないですね。
越えられない山ではないでしょうね。

ただ筑紫平野と玄界灘に面した集落群を大きく隔てている感じはあり、
伊都から築後川周辺の集落群に行くには奴国の方から大宰府を通りぐるっと回るのが
常識的でしょうね。大宰府は白鳥庫吉が不弥国に比定していますね。(少数意見ですが)

私は邪馬台国論争にはあまり深入りせず、初期ヤマト政権の成立プロセスから
蝦夷と律令政府の戦い、平泉藤原氏が頼朝に倒されて、北東北の蝦夷が完全に
鎌倉幕府に取り込まれるまでの日本国の成立プロセスに興味を持っています。

邪馬台国論では当会の奥野会長が会長に就任された直後の会食で
「Fさん、女王国は伊都国の南にあると書いてあるよ」と話され、
背振山地を挟んで伊都国の南、即ち筑紫平野にあると話されたのが
印象に残っています。更に「女王国から東に海を千余里渡ったところにも
倭種の国がある」と書いてあるよとも話されました。

ただ、女王国(邪馬台国はその一つ)が筑紫平野だとすると一番の
ネックは投馬国ですね。5万余戸ですから。
やはり出雲や吉備が魅力的ですね。

私は奴国・吉備・東海が連合して初期ヤマト政権を成立させたのではとの
仮説を随分以前に『東アジアの古代文化』に投稿したことがあります。
東遷説ではなく、女王国の分解です。

箸墓は壱与の墓か、あるいは卑弥呼を再葬した可能性もあると
話したこともあります。
未だ若くて元気な時でした。良い思い出です。

 

続1-2:伊都国の謎

 投稿者:滑安房守  投稿日:2019年 2月19日(火)09時39分0秒
  続1-1:伊都国の謎からの続き

▲私が倭奴國王=倭国王だと考えた時に、伊都国との距離が問題になると感じたからでした。
>この時点で、「倭奴国」を「奴の津」と関連して考えるのは難しいのではないか・と考えるようになりました。
>しかし、まさか一世紀中葉に、畿内大和から、中国まで遣使したとも考え難いので、倭奴国は、やはり博多湾岸の那の津を中心としたあたりか、そうでなければ、甘木・朝倉とか山門のあたりだろう、と考えました。
>しかし、正直なとこと、すっきりした良い考えが浮かびません。

●仰っている内容が、安房守には良く掴めません。
 一世紀に発生した事件と、3世紀に発生した事件を、切り分けずにお考えになっているのではないでしょうか。

 「漢委奴國王」の話は一世紀で、断定は出来ませんが、おそらくは九州島の何処かからでしょう。
 魏への使いを出したのは三世紀で、一般には九州島の何処かであるか、近畿地区の何処かからでしょう。
 同一の王朝が、中国に使節を派遣したとしても、時代が異なりますので、とりあえずは、別とお考えになっては如何でしょうか?。

▲おそらく范曄は、AD57年の倭奴国も、邪馬台国だろうと考えたのではないでしょうか?
>その考察には、伊都国の問題が大きな位置を占めたのでしょう。
>その結果、范曄は「その大倭王は邪馬台に居る」と記載したのでしょう。

●その可能性は否定出来ません。

しかし、後漢書の倭の項は、魏史倭人条の表現と似通っておりますが、范曄は後漢書に倭の事を記す際、後漢代の記録資料だけを採用したと考えます。

以下の部分は間違いなく年次から見て後漢時代の記録文書による内容と考えられます。
 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見
 桓・靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王

それでは、続く以下の文が後漢時代の文書に書かれていた物では無いと言い切れるでしょうか。
倭人条とは似てはいますが、明らかに違う部分も認められます。
 侍婢千人 少有見者 唯有男子一人給飲食 傳辭語 居處宮室・樓觀・城柵 皆持兵守衞 法俗嚴峻
 自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王
 自女王國南四千餘里至朱儒國 人長三四尺
 自朱儒東南行船一年 至裸國・黑齒國 使驛所傳 極於此矣

続いて、後漢書の倭の初めの部分を見ますと
 倭在韓東南大海中 依山嶋爲居 凡百餘國 自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國
 國皆稱王 丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國

ここも、倭人条に似てはいますが、異なります。
國皆稱王との表現は倭人条に有りませんし、稱とありますから、自称王であって、後漢が認めた王でない事を示しています。
伊都国は後漢書には見いだせません。
邪馬台国への経路も記されていない事から、経路の情報は魏の時代の情報と考えられます。

後漢の終末期までの情報としてはこの文書のとおりであったと判断すべきです。
しかし、光武帝への遣使から、後漢の終わるまで、約150年有りますので、矛盾などが含まれていても、已むを得ないと考えます。

寧ろ、似ている部分は、范曄が後漢書を作成する時に用いた何らかの原典を、陳寿が先に使っていたと言うだけのことでしょう。
例えば、東度海千餘里至拘奴國が、魏書倭人条では女王国の南になっているのは有名な所です。
後漢書は、それなりに、後漢時代のことであるとして、論理的配慮が為されていると考えるべきだと思います。

▲勿論、彼は、会稽郡とも交通していた東鯷人が倭種である事や、或いは会稽郡にかつて倭人が住んでいたらしいことも、知っていたのでしょう。
>范曄は、陳寿『三國志』に注を付けた裴松之と同じ元嘉年間に、『後漢書』を編纂しました。
>彼が、その中でも「六夷」即ち、「東夷列伝」を含む夷蛮伝に自信を持っていたことは、獄中から、一族の若者に宛てた遺書とも言うべき所で自負している通りです。
>相当に資料を集め、校勘・考証をしたと思われます。

●同感です。
 しかし、そう仰っていることと、初めの部分で述べておられることに、矛盾が生じているように感じられてなりません。
 石見介様の仰っている事を、安房守が誤解しているか、理解不足の所が有るのでしょうか?

 お教え下されば幸いです。
 

続1-1:伊都国の謎

 投稿者:滑安房守  投稿日:2019年 2月19日(火)09時32分51秒
  ▲『魏志倭人伝』で、郡使の往来常にとどまる所、と注記された伊都国を、どう考えるかが、邪馬台国の所在地論争や、或いは、その前の倭奴国についても、大きな手掛かりを与えてくれると考えられます。

●石見介様
大変な難題をご提示いただき有難うございます。
安房守が誤解している部分も有ると思われますが、現在の考えを述べさせて戴きます。
なお、勝手ながら、誤字と思われるものと、文章の区切りを、安房守の推測で、変更してましたことをお許し願います。

長文になると思われますので、分割して投稿させて頂きます。
記号の凡例
▲:石見介様のコメント引用開始
>:石見介様のコメントの続く部分
●:安房守のコメントの開始

▲邪馬台国の所在地に関わる問題としては、邪馬台国が北部九州にあるのであれば、伊都国が糸島半島に無かったとしても、何故、郡使が、近い邪馬台国迄行かなかったのかが、問題になります。
>邪馬台国近畿説に立てば、伊都国は、後の大宰府のような「遠の朝廷」的位置付けで、了解する事は簡単です。
>一大率を置く必要性も、邪馬台国が、古田武彦使節のように、邪馬台国が博多湾岸に在れば、無用です。
>即ち、伊都国を考える限り、邪馬台国は、近畿に無いとしても、北部九州に存在する可能性は、極めて低い事になります。

●同感です。

▲この点は、戸数問題と併せ、邪馬台国北部九州説に対しては、著しく不利な材料でしょう。
>実は、古田氏の『邪馬台国はなかった』を読み、この問題に対する関心を呼び起こされた私が、当初の古田説信奉から、近畿説に変わっていく大きな動機でもありました。

>邪馬台国が、中南部九州に在れば、伊都国問題は、九州説を採っても、何とかクリアできます。

●安房守が近畿説に変わって行った理由とは異なりますが、概ね同感です。

▲梯儁、張政が、邪馬台国迄言っていたかも議論がありますが、やはり伊都国止まりだった後考えるべきでしょう。

●命令は正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等【奉詔書印綬詣倭國拜假倭王齎詔賜金帛錦刀鏡采物】倭王因使上表荅謝詔恩です。
 倭王に、直接、渡せなかったとしても、【拜假倭王】とあり、倭王因使上表荅謝詔恩と復命しています。
 邪馬壹國,女王之所都に行き、倭王の前で、その行為を命令どおりに実行したと判断するのが普通であると安房守は考えます。

▲次に、後漢光武帝より印綬を受けた倭奴国と伊都国の関係も、問題になります。
>「倭奴」あるいは「委奴」を「伊都」国と見做すのであれば、何故、『後漢書』や『三國志』がそう記載しなかったかが、問題になります。

●日本列島に派遣された人間が、行先が光武帝より印綬を受けた事を知っていたかもしれません。
 しかし、記録上残っていませんから、印面が「漢委奴國王」であることを知らなかったと見ることが妥当と考えます。

 金印も発見されていない時代ですから「委奴」とあることを推定することも不可能です。
 「印綬」に何とあったか、根拠となる文書が無いので、史書を記す立場としては、記載しないのが当然です。

 九州島の住民は、現在の地名を語るだけです。
 使節は報告書に倭人から聞いた情報を正直に記し、陳寿、范曄共に「漢委奴國王」を知らないのですから「伊都」と「委奴」を関連付けが出来ようも有りません。

▲いずれにしろ,AD57年の後漢光武帝の印綬が与えられた時には、郡使がこれを伝達したでしょう。
>しかし、倭奴国が博多湾の那の津近辺であれば、直接、倭奴国王に渡したと考えられます。

●那の津近辺では無くとも「漢委奴國王」に直接渡した可能性が高いと、安房守は正始元年の例から考えます。

▲その場合、伊都国が、常に郡使が駐○処、となった時期が、何時なのかが問題になります。
>仮に、郡使が、AD57年以降、10~20年射五回ぐらい往来したのであれば、倭国の王権が、博多辺りから糸島半島に移った場合、これを把握した筈です。

●自国に直接的な影響を与えるとは考えられぬ東夷の小国の内乱を把握していたとしても、記録に残すでしょうか疑問です。
 恒霊の間の内乱についての記録は、卑弥呼という女性が王となった(呂后との対比でしょうか)理由を述べるためと考えます。

▲そうでないとすれば、郡使の往来はもっと少なく、史書に記載された,AD57年以外は、邪馬台国との交渉の時まで無かったと解釈するかになります。

●少なくとも、後漢書からは見いだせませんでした。
 公孫氏との間でのやり取りは有ったかも知れませんが、記録は見出されていません。

▲そのように考えずに、やはりAD57年以降、郡使が倭国と往来がもう少し頻回あり、伊都国でとどまって、倭国王(倭人諸国のみ主)と考証したのであれば、実は、倭奴国も、博多湾岸や北部九州ではない、もっと遠方にあったことになります。

●伊都国=委奴國であると仮定しての事でしょうか?
 否定することは出来ませんが、何の記録もないので、肯定も出来ません。
 可能性としてはあり得ると思います。

続1-2:伊都国の謎へ続く
 

Re:<台湾平埔族のものがたり>展

 投稿者:そんべ  投稿日:2019年 2月19日(火)01時05分17秒
   サントバーボロさんのご紹介で、行ってきました。ほかの用事もあって
お茶の水から神田錦町、東京駅、日本橋と歩いたら少し疲れました。
 母方の祖父は日清戦に従軍しそのあとどれくらいか台湾にまわされ、そのあと
また日露戦に従軍し負傷したひとでした。台湾のどこかで伊能嘉矩、新渡戸稲造
とすれちがうこともあったかとかんがえたりしました。

http:// 

 

続・音国の謎

 投稿者:石見介  投稿日:2019年 2月18日(月)23時06分9秒
   二つばかり、書き漏らしましたので、補遺の意味で、書き込みます。

 一つは、万事一滴様が述べられておられるような「用字」の問題です。先の卑字、好字の議論にもありましたが、「伊都国」の「伊都」は、その観点からは明らかに「卑字」ではありません。「都」などは、好字の部類でしょう。「怡土」とかの文字でもよかった筈です。この「伊都」という文字を国名に使用したのは、伊都国側だったのか、或いは楽浪郡の役人だったのか、気になります。倭人で漢字に習熟していたのか、或いは漢人商人などが、字を選んだのか、種々想像でいます。

 二つ目は、「『世有王』統属女王国」の記載です。統属女王国」の部分の解釈は別にして、何故、伊都国のみ、「世有王」と記載されているのかが、疑問点です。范曄『後漢書』倭伝では、倭人諸国には、皆王がいた、とされていますが、『魏志倭人伝』では、そういう記載ではありません。単に紛れ込んだのではないとすれば、「伊都国の王」が何か特別な存在であった可能性を示唆します。
 一大率を兼任していた、他の玄海灘沿岸諸国などに対する監察官的な、特殊な王だったのか?しかし、一大率と伊都国王が、同一人だったという事も考え難い。タキトゥスの『ゲルマーニア』にある王制と王政ではない貴族政の部族(civitus)があったように、倭人諸国にも、世襲的な王制ではない国があったのか?

 私が一つ考えているのは、そのような倭人諸国間の相違の反映ではなく、「王」が中国中原政権が「王」と認めたから、「王」と記載している可能性があるか否かです。即ち、「伊都国王」こそが、かの後漢光武帝にAD57年印綬を受けた「倭奴国王」であり、その子孫が「世々」王位を継承していたから、伊都国にのみ、「世有王」と記載したのではないか?という可能性です。この場合、「倭奴」あるいは「委奴」國が「伊都国」を意味した可能性と、伊都国王が「倭王」に叙爵されたが、「倭国王」を漢字表記上「倭奴国王」にした、という双方の可能性があります。その後邪馬台国が、大倭王として、親魏倭王に冊封されたが、伊都国を警戒して、一大率を置いた、という解釈になります。

 唯、これについては、范曄『後漢書』を見る限りでは、否定的に考えざるを得ませんが。
 

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