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考古学は何処を向いているのか

 投稿者:万事一滴  投稿日:2019年 4月20日(土)20時24分23秒
編集済
   歴博リニューアルの模様を拝見して

 当世奇妙兄、オリエント部会兄のご報告を拝見して、変わろうとされていることが推し量られ、積年の、主に在野の識者からの指摘はあっても、一向に変わらなかった舵が、やっとの思いはあるも、切られたようで、本邦の人文科学系諸学の事実に立脚した見直しへの先駆けとなるのではと、幾度も、期待は外れるも、期待し直したいと思います。

 ご両兄の短信に再触発されて、先年、送信は見合わせました、談話室での嘆息に触発されて記した古い拙慨嘆を送信させていただきます。

 これまでも小出しに呟かせていただいたものです。

 Re:難しい・・・ (後段再掲)までを拝見してであるが、例によって辛辣、不遜は恐れるも、日本の考古学界の体質の問題のように感じられる。
〔起筆2011.12.23.するも保留、掘り出し2019.04.16.〕

 十数年前、当会の「沙羅の会」で、お若い頃、イギリスに留学された、当時は、女子大で教鞭をとっておられた化学専攻の教授から、アイルランドにある8,000年前に遡る巨大な日本の巨大古墳そっくりの楕円墳の紹介を拝聴した。

 程なくして、もうかれこれ十年近く前、東松山市埋蔵文化財センターで永年発掘に携わられ、文部省の推薦で、英国文部省?の招聘により給費留学されたS姉も、彼の有名なロンドンの大英博物館でアイルランドの日本の巨大古墳そっくりの楕円墳から発掘された日本の古墳でも見られる形状の壷、その図柄を紹介いただいた。方々で報告されるも、反響は杳として聞かれず、慨嘆されていたことが思い起こされる。

 壷の形状、図柄は河姆渡だったか、良渚だったかの壷とそっくりで、図柄は「甲骨、金文、篆書の数詞五、シュメールの絵文字でも五」とそっくりで、茨城の虎塚古墳の彩色壁画の図柄とも同じであった。虎塚古墳の壁画には丸二つも、図柄「甲骨、金文、篆書の数詞五、シュメールの絵文字でも五」に並列して描かれ、シュメールの絵文字、甲骨文字でも、丸二つは数詞20であり、日神を指し、記憶は朧であるも、マケドニア語だったかでも、数詞20は日神を指していたたように思われ、数詞の共通性も単なる偶然では片付けられないように思われよう。

 8,000前に遡る北欧の壷、壷の図柄とそっくりの形状の壷、壷の図柄が河姆渡(7,500年前~5,000年前)だったか、良渚(5,000前)だったかの壷に見られるのであり、となると、虎塚古墳の同形状の壁画も北欧からの伝播も否定はできず、長江流域から、或いは、ステップ地帯、さらにはシベリア経由で北欧から直接の経路での列島への伝播も、紅山文化(8,400年前~5,000年前)圏の玦状耳飾の長江、アカホヤ層(6,400年前)下の列島南北への広がりからも、考えられ、本邦の土器の編年も科学的に冷静な検証が迫られているのではなかろうか。

 当会分科会「美術の会」でも、5年ほど前だったか、M姉が北欧を廻られ、8,000前に遡る巨大楕円墳は北ヨーロッパからキルギス平原まで広く分布していることを紹介され、提起は姉が初めてではなく、ずっと前から、江上波夫さんが紹介されるも、日本の考古界は無視されたとのことであった。姉によれば、同形状の古墳はスーダンにも見られるとのことだったが、本年だったか、NHKでも放映された。然し、寡聞にして、考古界の反響は聞かない。

 例によっての不遜はお許しを乞わせていただきたい。


《難しい・・・
投稿者:M姉(当時談話室常連)   投稿日:2011年12月23日(金)14時51分16秒

 H様 G様 ありがとうございました。
遅くなってすみません・・・。私も似ているので本当に驚きました。イスラエルでは掘った洞窟の中に棺や骨壺・円筒埴輪(incense stand またはcult stand)を置いたようです。これも日本に似ていると思いました。

 先日、中東に発掘に行かれていた考古関係の方にいろいろお聞きすることができました。以下、お聞きした内容です。『日本の遺物とイスラエルのものが似ているのは、当然文化の伝播があったからだと考えられています。

 千年以上の時間差があるのは、文明・文化の伝播はそれらの発達とともにスピードが増します。なので、時間差があるのです。中東・西アジアで発掘している日本の考古学者はいますが、たとえ日本と同じような遺物があっても、それを広報するという考えはありません。せいぜい中国まで伝わったのだろう・・・という見解です。なぜなら、彼らは、西アジア・中東の研究者だからです。中国から先、どこにどのように伝わったかは、東アジアの研究者が研究することです。

 合同で研究すればわかることも多いかもしれませんが、考古学に関しての価値観が違うなど、いろいろ問題が多いのです。日本では、中国から伝わった、韓国から伝わった・渡来した・・・と言うに留まっていますよね。その向こうの西アジア・中東から伝わっていても、中国・韓国(それ以外)を経由するので、はっきりと『どこの国のもの』が伝わった・・という言い方はしていません。中東・西アジアは政治的なこともあり、歴史遺物に関して調べることも難しいです。

 本当に知りたいのでしたら、日本ももっと自国の遺物や文化を海外に発信するなどしない限り、無理ではないでしょうか。文化・文明の終着地点(日本など)というのは、遺物や文化の残存率が良いのですから、もっと海外に発信するなどすれば、何か手がかりが聞けるかもしれませんね。』・・・ということでした。

 何か腑に落ちない感じでした・・・・。》

 
 
 

三輪山の謎

 投稿者:トミー  投稿日:2019年 4月20日(土)19時48分18秒
  三輪山の謎

東京外語大の伊藤英人先生は、語学研究所論集 第18号(2013年3月)の中で、
河野六郎先生など多くの論者が3世紀に朝鮮半島の南部に倭語を話す集団が存在したことに言及している。

弁辰12国中の涜盧国(魏志韓伝)が倭と接界しており、弁辰12国中の弥烏邪馬国を
Mi-Wa-Ya-maと解している。

福岡市文化財の久住猛雄先生は、ふたかみ邪馬台国シンポジューム17= 総別シンポジューム(2017年)の中で、金官加耶の金海鳳凰台遺跡や、その衛星国の涜盧国の一角で釜山市東莱貝塚では1B期~2B期前後の北部九州在来系土器が出土し、その特徴は糸島地域のものが多い。博多湾岸貿易開始後に北部九州の主要対外窓口が博多湾岸に遷った後も伊都国は弁辰韓との間に独自の交易ルートを維持した可能性があると指摘されている。

釜山市東莱貝塚には、北部九州の土器だけでなく出雲の漆製品を容れる土器もあり、日本列島との往来が盛んな地である。後に伽耶が新羅の支配下に入った時代になっても
独立色が残っていることに注目している。

河野先生が邪馬をYamaと解しているのも注目している。
久住先生の1B期―2B期は正に古墳出現期から古墳時代前期初頭に相当している時代である。220年―300年の時代である。
さて、三輪山は箸墓のある奈良県東南部の纏向地方に位置し、三輪山祭祀が変遷することを探求した中間報告を先ず述べます。(討論室:出雲と大和)

以下に参考文献を紹介します
① 古代日本誕生の謎ー大和朝廷から統一国家へ(武光誠先生 PHP文庫2006年)
②古代を考える沖ノ島と古代史祭祀―三輪山祭祀の変遷(小田富士雄先生 吉川弘文館 1988年)
③三輪山<日本国創成神」の原像> (前田晴人先生 学生社 2006年)
 

歴博リニューアル

 投稿者:オリエント部会  投稿日:2019年 4月20日(土)18時39分40秒
  本日、いい天気のもと、歴博の先史・古代のコーナーへ行って来ました。
まず驚いたのが、様々な縄文コーナーで、縄文文化というひとくくりの文化ではなく、様々な地域による文化、特に土器様式がずらりと並べられてました。
こう見ると、弥生式と縄文式の区別が難しくなるような様々なバリエーションがあり、芸術性は勿論、精密性をみれば、むしろ弥生よりも進んでいる感じがしました。又、漆塗り土器などは機能性、彩色性においても弥生土器より進んでいると思います。
「弥生って何?」て言いたくなりますね。
次に、その弥生ですが、前期と後期にわけ前期を石器文化、前4cから前1c(続縄文、北の稲作、西の稲作、南の貝塚後期)後期は石器と青銅器と鉄器の初期鉄器文化という位置付けで続縄文、弥生、貝塚後期という従来の弥生文化に分けたということです。
すなわち、石器文化と鉄器文化の違い、又、初期の水田稲作が東と西では違うということがポイントだと思います。
私は東国でも長野や東北と関東では対応が違うので、更に分かれるのではと思っています。
又、稲作の伝来では「畑作」と「水耕」と連続してあるように紹介されてますが、我々の出した結論は別々のもので水耕は独自のルートで来たと判断しています。
古代については大和ありきの論理はなくなり、「ワカタケル」もなくなっていました。
これはインプルーブですが、ではどのように「大和王権」が成立したかの説明はいまひとつでした。我々の「港市国家論」を採用してほしかったと思いました。
以前の展示よりも、よりこまかく、特に東北・東国のデータも豊富にあり、中央史観の修正努力がみられ、好感度がありました。
 

年輪年代法議論

 投稿者:当世奇妙  投稿日:2019年 4月19日(金)20時54分10秒
編集済
  5月11日に年輪年代法の講演会・議論があります。
13;30開演
文化シャッターBXビル 多目的ホール
地下鉄 春日駅が近い

https://tokyozenyamaren.web.fc2.com/
の「最新情報」クリックしてください。
全国邪馬台国連絡協議会 東京支部の第9回東京大会です。
 

万事一滴さま

 投稿者:オリエント部会  投稿日:2019年 4月19日(金)20時39分13秒
  龍角寺について、ご報告ありがとうございます。
岩屋古墳(78m一辺の方墳)については、私も蘇我氏との関係を考えてます。
又、出土品の本尊薬師如来像など「鄙」にはまれな秀逸品です。
やはり、古代日本の東の果てまで、渡来人が来ていたと思います。
(学会は夷の地として、あくまでも遅れた地域という判断です)
さきたまの稲荷山古墳の鉄剣の銘文についても、東国の中央支配を優先に読む通説、再検討の余地があるのではと思っています。
裏に「雄略天皇」でなければ「いけない」という「イデオロギー的」なニオイを感じます。
 

歴博フォーラム

 投稿者:当世奇妙  投稿日:2019年 4月19日(金)17時51分22秒
  HP投稿の皆さん
東アジア幹事の皆さん

リニューアルした歴博いきましたか?
6月15日(土)のフォーラム行きませんか!
我が会の常連講師上野、高田、仁藤さんも講演されます。
 

ウィキペディアの龍角寺

 投稿者:万事一滴  投稿日:2019年 4月19日(金)12時05分38秒
   オリエント部会兄ご喚起の関東の蘇我氏の龍角寺

 ウィキペディア(Wikipedia)に載っていますので、ご参照されてはと思われます。

 同ウィキペディアより抜粋
《寺の南には、最後の前方後円墳といわれる浅間山古墳や、畿内の大王陵を凌駕する終末期最大の方墳龍角寺岩屋古墳などがあり[3]、馬来田の上総大寺廃寺(千葉県木更津市)、武社の真行寺廃寺(同山武市)、上毛野の山王廃寺(群馬県前橋市)などとともに[注 2]、国造制から律令制への移行段階に建立された印波国造の領域の初期寺院とされ、畿内以外では最古にあたる寺院と考えられている[2]。

 龍角寺岩屋古墳は典型的な畿内型の終末期古墳であり、畿内中枢との密接的な関係なしに理解できないという。方墳は用明天皇陵の春日向山古墳や、推古天皇陵である山田高塚古墳をはじめ、蘇我馬子の墓の可能性の高い石舞台古墳といったように、蘇我氏関係の墳墓に採用されていること、さらに規模においてはそれらを凌駕しており、蘇我氏がその造営に深く係っていたと推測される。そして龍角寺の創建瓦も蘇我一族の蘇我倉山田石川麻呂によって創建された山田寺式の瓦を採用していることから、龍角寺の造立者は龍角寺岩屋古墳の被葬者の系譜下にあり、蘇我氏系の氏族であったとする見解もある[2]。》


→関東の巨大廃寺群の遺構、上野三碑、等々からは、通説は要再検証かと。

→稲荷山古墳の鉄剣銘文からも、被葬者は高句麗の王族支鹵を引き、関東一円も高句麗系かと。

 
 

蘇我氏の地方進出

 投稿者:プレアデス  投稿日:2019年 4月18日(木)17時54分28秒
  万事一滴さん、お久しぶりです。PCが絶不調になり、談話室に投稿ができなかった間にも、精力的に投稿されていたことと思います。


教えていただいたオリエント部会さんの討論室にも、一度お伺いしてみたいと思います。蘇我氏の東国進出についは、文献の分野でも研究されており、大変興味を持っています。


現在、、蘇我氏と北陸道について考えています。記紀に「越、高志」と書かれている北陸道の蘇我氏の進出については、越前に所属していた江淳の地の豪族である江淳氏のことが、姓氏録大和国皇別「江淳臣、石川同氏、建内宿禰男若子宿禰之後也」(古典文学大系 日本書紀 下)にもあるように蘇我氏の進出が想像できます。

蘇我氏の北陸道の進出は、大化の改新前後、すなわち蘇我蝦夷の時代及びその直後で、これは、大和政権の東北の政策(対、蝦夷)問題のプロローグと軌を一にしているのではないかと考えています。

 

関東の蘇我氏

 投稿者:万事一滴  投稿日:2019年 4月18日(木)11時38分8秒
編集済
   プレアデスさま

 暫く、拝見できなかったのはINの不調で通信し難かったからとのこと、ご復帰第一報は蘇我氏、族譜を追われ、主導氏族の幾度もの交代を浮き彫りにされ、事実によって問題点を示唆された手法は鮮やか、母系に注目され、系譜を追われている米田兄もご注目と思われ、作為勿かりせば、母系継承が隠れていないか、何れ、ご報告されるのではないでしょうか。

 貴兄の蘇我氏へのご注目に応えられ、関東の蘇我氏も追われているオリエント部会兄も討論室「Re: 東国の渡来人 ( No.177、同178) で報告されていますので、開いてみられては如何でしょう。

 小生も、中原から四散した辰の裔孫を追っていて、韓半島の新羅の王統に連なることが茫漠ながら遠望される蘇氏は、蘇州、九州にも裔孫は辿られ、列島では忽然と消えるも、嵯峨天皇の弘仁元年(810)辰の裔、須佐之男尊は正一位の神階が下賜され、日本総社、天皇家の祖神とされ、宮中三神の一とされるも、維新を経て見られなくなり、興亡、浮沈は注視してきました。

 住友の業祖、蘇我理右衛門も蘇我氏、技術の系譜は、俯瞰、深耕は他日と為るも高句麗経由、西方に辿られ、心技一体ではありませんが、覇権は技術によって担保されていて、蘇氏も、然りだったかと。

(追記)
 辰の裔を誤って嬴と打っていて先刻、裔に直させていただきましたが、辰の同系音の秦の秦室の皇統も裔と同音の嬴、この符合はまるで裔は秦室を遡る辰、眞、新、晋、等々の秦の祖先の同族の裔に由来しているかのよう、・・・・。

 
 

歴博リニューアル

 投稿者:当世奇妙  投稿日:2019年 4月18日(木)07時50分24秒
  3月19日に「先史・古代展示室」リニューアルオープンしたので行ってきました。
全面的に写真撮影OK(フラッシュなし)で先ず感激。
邪馬台国と三角縁神獣鏡(2枚のみ)は無い。
始めにヤマトありきではない。
解説図が豊富で、中身はヤマト中心主義ではなく納得。

沖ノ島の時代、朝鮮半島と北九州のメイン航路は対馬ー沖ー関門海峡と表示。
これは異論ある人もいるだろう。
6月15日(土)10-16;30に総合展示の歴博フォーラム。
要事前申し込み。
第一展示室のちらしの下にチラット「弥生時代が約500年早く始まった、
箸墓は3世紀中頃出現を科学的に突き止めた」と記載してるのは愛嬌か!
C14,年輪年代、酸素同位体について展示の隅の見逃しそうなところに
紹介があった。
 

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