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工事用飯場説

 投稿者:当世奇妙  投稿日:2009年11月23日(月)13時34分4秒
  さすが福嶋さんらしい発想ですね。
傑作な話です。あれを卑弥呼の宮殿と言う仮説が通用するならば、そのような仮説も
あり得るかも!複数回建てなおして継続使用された痕跡がないようですから。
近くに東海から来た作業員の道具捨て場もあったらしいですから。

http://www.npo-rich.jp/modules/tinyd0/

 

大型建物?

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2009年11月23日(月)10時19分26秒
  ※畿内の陵墓は九州皇統の廟である。
*箸墓近くの大型建物は、古墳築造作業員宿舎(飯場)で、小さいのは現場監督宿舎。
*各地の土器が出土するのは、それらの地域から作業員を招集した証拠。
*箸墓築造後は解体撤去した。柱穴から柱は抜き取られていたのとも整合する。
 

東京国立博物館の研究員

 投稿者:トミー  投稿日:2009年11月22日(日)09時46分5秒
編集済
  中央アジア鉄生産の講座の後、懇親会で、村上恭通先生の隣に、古谷毅さんが居られた。国立博物館において、甲冑などを専門に研究されておられる方のようです。

村上さんも古谷さんと情報交換されておられるようにお見受けしました。
古谷さんの推奨の本として、奈良大の東野治之さんの著作、遣唐使(岩波新書)を教えていただきました。その本には、藤原不比等は子弟を遭難の危険の大きい遣唐使として派遣し、唐の文献10000の内5000ぐらいは日本に持ち込んでいる。不比等が先進情報を吸収していたことが書かれているそうです。古代豪族に詳しい加藤謙吉さんの話では、京都の山科には鎌足の居宅があり隣に田辺史大隈の居館があった。

田辺史は百済からの渡来人で文武に通じたインテリであった。鎌足は息子の不比等を山科の田辺史に学問を学びに通わせたらしい。

不比等は史でしょうか。学問や情報を仕入れて勢力を拡大したのでしょう。

東京上野の国立博物館には古谷さん以外に優秀な研究員が居られるようです。

因みに、情報アーカイブを見ると、下記の谷さんなどの学術研究がありました。

楽浪郡の漢人は公孫氏の動きなどに関連があり、倭国への影響も考えられます。

東アジア会の講演に登壇いただけるとありがたいと思います。




「中国文明の観点からみた楽浪文化」21世紀 COE プログラム関連シンポジウム「楽浪文化と東アジア:楽浪郡研究の最前線」。
概要
前108年から後313年まで、朝鮮半島北部に存続した中国王朝の地方統治機関である楽浪郡の文化の特質を、近年の中国および朝鮮半島における考古学研究成果により総括。

研究者グループ
谷豊信
 

“中央アジアの鉄の道”

 投稿者:玉枕  投稿日:2009年11月22日(日)01時13分8秒
  プレアデスさまから国内のアイアンロードをご披露いただいて感謝です。
今日は、昨日は遠くシベリアのバイカル湖の西側、モンゴロイドとヨーロピアンが錯綜した地域の鉄生産の調査報告を村上先生からご講演いただいた。

現在、その地はロシアから独立してハカシ共和国となっている。
かつては匈奴の地、騎馬遊牧民の地であり、ミヌシンスク盆地は彼らの中核に近い人々がいたと想定されている。
この地で製鉄が盛んに行われているのがタシュチィク文化(紀元1世紀〜4世紀)の頃であるという。
村上先生は、その製鉄技術は高度なものと思っていなかったが鍛造による短刀や鉄鋤をみて、その精巧さに降参してしまったとおっしゃっていた。

彼らは炉を高温に上げる技術をもっており、スラグはほとんど鉄が残っていない。
それでは、このような製鉄技術はどこからもたらされたのか?
アバカン地域は司馬遷の『史記』にも名前の見える李陵の邸宅址が発見されており、そこからは大量の文字瓦が出土し、まさに漢民族の手による瓦とされ、接点を感じさせる。
製鉄文化もその影響化か?
この地の炉のあり方は漢民族(この時代にすでに高炉を使用)のそれとは異なり、小さな炉を幾つも作って大量生産されているという。

まだ、この地の研究は少なく、今後の発掘調査からの報告が待たれる。
中央アジアの製鉄炉の研究が東と西の製鉄技術の鍵を握っているのかもしれない。
 

国道176号線と「鉄の道」

 投稿者:プレアデス  投稿日:2009年11月21日(土)14時15分5秒
編集済
  通称「いなろく」と呼ばれている一本の国道があります。それが国道176号線です。この道が、大阪湾周辺の鉄器文化を切り開いたのではないかというのが以下の記述です。

この道の出発点は大阪湾、到着地点は丹後半島の付け根の岩滝町である。岩滝町には、鉄剣11本を出土した大風呂南遺跡がある。途中の福知山では景初四年銘の盤龍鏡を出土した広峯一五号墳があり、到着地点手前の弥栄町では、青龍三年(235)銘の方格期矩鏡を出土した太田南五号墳や、枝分かれしてしばらく行ったところの豊岡市では正始元年(240)銘の三角縁神獣鏡が出土した森尾古墳がある。

岩滝町の手前の加悦(かや)町では近畿式の銅鐸が出土しており、森尾古墳から円山川に沿って日本海に出たところの気比で出土した銅鐸の鋳型は、北摂津の東奈良遺跡で出土している。

このように、176号線の沿道では、鏡や銅鐸と関係していることが分かるが、其れを結ぶものとして貨銭や鋳造鉄斧がある。日本海沿岸の鳥取県妻木晩田遺跡からは、遼寧地方発、朝鮮半島西北部、日本海を経由してきた鋳造鉄斧、また、青谷上寺地遺跡からは貨銭が出土している。

鳥取地域は、朝鮮半島と丹後半島との間の交易品の中継基地として栄えた。また、丹後半島と摂津の間で銅鐸と貨銭・鉄器素材をそれぞれ交易品としていた。貨銭は貨幣として使用されたのではなく、銅鐸の鋳造に使うための、鉛や錫の原料の代替品として使用されたのである。

淡路島に弥生時代後期後半の倭国最大の鉄器工場、垣内(かいと)遺跡がある。この工場は恐らく摂津・阿波・淡路島等で共同で設立された官営の鉄器工場であろう。この三地域は、銅鐸製造でも深く関わっている。

纏向遺跡の庄内式土器や壺形祭祀はこの地域のものである。

参考文献、『倭人と鉄の考古学』 村上恭通 青木書店、「中国鏡流入のメカニズムと北近畿の時代転換点」『丹後の弥生王墓と巨大古墳』 福永伸哉 雄山閣
 

竪穴式住居

 投稿者:玉枕  投稿日:2009年11月21日(土)08時41分25秒
  プレアデスさま、青谷上寺地遺跡は“弥生の脳”が検出され注目を浴びましたが、鉄製小道具を背景に木製器のすばらしさには目をみはります。
それらが土器ではなく、“木器”であることの驚きです。
そして建築部材の多量の出土です。これらを使ったら4種類くらいの建物のバリエーションが想定できそうだと浅川教授は考察されています。

でも不思議なのは、これらの建築部材の多さに比べて建物遺構跡の検出は少ないようです。現在見つかっている建物遺構は掘立柱建物が8棟だけです。
竪穴式住居跡は検出されていないようです。纏向と似ていますね。
浅川教授はこの地には竪穴式ではなく、平地式住居だったかもしれないとお考えのようです。
 

建物の復元

 投稿者:プレアデス  投稿日:2009年11月20日(金)12時43分6秒
  玉枕さん、青谷上寺地遺跡のご紹介、有難うございました。あの建物の復元を拝見しまして、ひょっとすると当時の金属加工の工房はこのような建物ではなかったかと想像してしまいました。大変興味深い資料のご提供、大変参考になりました。  

鉄製遺物の考察

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2009年11月20日(金)11時32分9秒
  ※遺物が出土した地層の時代を起源とするのは大いに疑問です。
*埋没した時代に盛んに使われていたとされるのは、唯一、鏃だけでしょう。実戦闘で射掛けた鏃は遺骨に刺さっているものと、原野に放置され回収不能だったもの(貯蔵・副葬品以外)。
*初期の鉄器は、石包丁、石斧が捨てられた時期ではないでしようか。
*木製鍬、鋤が捨てられた時期(埋蔵物化した時期)が、鉄製鍬、鋤が普及した時期でしょう。
*鉄製鍬、鋤の遺物が出土する時期は、鈍ら鉄から鋼(はがね)製への移行期ではないでしょうか。
∴私は、鏃(やじり)を造る程度の製鉄はもっと遡ると思いますし、鉄製農具も弥生の食糧増産人口爆発の原動力である、と。即ち、弥生時代を招いたのは鉄器である、とします。
※考古学者は思慮が浅いのではないかと思います。
 

“纏向と青谷上寺地”

 投稿者:玉枕  投稿日:2009年11月20日(金)09時27分23秒
  村上先生の遊牧民族社会における鉄生産のお話、楽しみです。
鉄製の武器や馬具の出土が列島社会に出現するのが5世紀!どのような移入が考えられるのか!

一方、農耕民族社会においては、鉄製農耕具は弥生時代中期以降、北部九州から山陰、北陸と広まり、今回、弥生社会において鉄製品が366点出土している青谷上寺地遺跡からも窺えます。
纏向遺跡における鉄製品の普及率はどうだったでしょう?
今回の中枢部から検出された大型建物を想定している柱穴の存在は、細い柱材でも様々な構造材の加工によって可能であることは青谷から出土している部材によって復元可能との浅川研究室の検証があります。その背景に鉄製工具の存在があります。
纏向遺跡の現場から建築部材と鉄製の工具類の発見が待たれます。部材は溝の護岸に転用されていても存在しているはずです。

青谷上寺地遺跡は、弥生社会が交易を通して経済活動が盛んであった事を知らせています。
村上先生曰く「弥生時代においては交易環境を破壊してまで鉄器の普及を推進することはいかなる権力をもってしても不可能であったに違いない」と!
 

11月21日村上先生の鉄発掘講演:無料

 投稿者:当世奇妙  投稿日:2009年11月19日(木)21時12分21秒
  村上先生は20日の上海から松山へ。直ちに上京し有しと濱田青陵賞受賞祝い。
翌21日最新のシベリア発掘成果からのご講演です。

シベリア・騎馬民族の鉄生産-アバカン調査報告-」
日 時 11月21日(土)13時半開演
講 師 村上 恭通氏(愛媛大学・東アジア古代鉄文化研究センター)
会 場 キャンパス・イノベーション・センター(CIC)国際会議室
    (地下鉄三田駅、JR田町駅徒歩5分)
定 員  80名(予約不要、開場後先着順)
資料代 無 料
照会先 携090-9835-1857  稲垣

講師の言葉
古代東アジア世界において、農耕民族社会と遊牧民族社会という二項対立的な把握を許されるならば、前者における鉄や鉄器普及の問題を自分自身これまで検討してきました。後者については、豊富な鉄製武器・馬具を渉猟しつつも、鉄器の獲得方法に関してはほとんど検討できない生産関連資料の現状があります。そのなかで唯一、南シベリアのミヌシンスク盆地、ハカス地域には紀元前から中世にいたる鉄生産関連資料が集中的に見られます。鍵を握るハカス地域の資料調査成果を踏まえて、遊牧民族社会と鉄生産との関係について議論したいと思います。

http://www.npo-rich.jp/modules/tinyd0/

 

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