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須恵器の語源

 投稿者:素里奈  投稿日:2009年11月27日(金)16時41分24秒
  以前にも似たようなことを述べたことがあるので、一部重複するが “すえき「須恵器・陶器」古墳時代後期から奈良・平安時代に行われた、大陸系技術による素焼の土器。良質粘土で成形にはろくろ・・・(広辞苑―以下省略)。

須恵器の語源を、私見ながら庶民的に記す。
須恵器の語源:−【鐵】「tShᑐl」「名」音読み チョル・철 訓じて スェ・쇠、器キ・기は 日韓共通(所帯道具にする器)쇠기・スェキ 割れない長持ちする土を成形して焼いて食器にした。含まれている鉄分をより均等に含ませる方法として手もみから、麻袋のようなもの、進んで木綿袋に入れて飽きるほどに踏む方法へ、さらに進んで轆轤を回して煉る方法へと改良された。(ここまで私見)。

“五世紀に入ると、列島の各地に新たな文物が登場する。称して須恵器(スェキ・そのまま伝播して名称化―参照者加筆)とよばれる固く焼きしまった土器。大阪府堺市の陶村(すえむら)や福岡県夜須(やす)町の小隈ではこの時代からそれを焼いており、島根県安来市の高畑古窯址や名古屋市の東山窯址などが知られている。須恵器は、手でこねてつくり七、八百度で焼きあげる従来の土器(弥生土器や土師器「はじき」)とは、技術の上で革命的ともいえるものである。

またロクロ(轆轤)の遠心力を利用して大量生産されるばかりでなく、規格品も製造可能。登り窯だと千二百度以上の還元炎で焼くこともできる。水をはじき、割れにくい丈夫なスェキ[須恵器]になる。(中略)日本各地に今も須恵・須江・陶(すえ)・末・主衛の地名が千数百ヵ所も残ることとなったのである。
『日本書紀』(四六三)条に、新漢陶部高貴(いまきのあやのすえつくりのこうき)、鞍部賢貴(くらつくりのけんき)、錦部定那錦(にしごりあんなこん)他数名らが百済から渡来したとある。”    “〜”は(李進熙氏の『日本文化と朝鮮』NHK Books  より。

 蛇足:人名で、「陶山」(すやまさん)があるが、おそらく先述李教授が述べた・『書記』参照にみた渡来人の後裔とおもわれる。
 

倭と半島の間の婚姻関係

 投稿者:プレアデス  投稿日:2009年11月27日(金)15時18分43秒
  6世紀前半の欽明期には、倭と半島との間に多くの婚姻関係が生まれていたことを表す記事が日本書紀に記載されています。紀臣奈率彌麻沙や加不至直などです。彌麻沙は紀臣と百済の女性との間に生まれた子で、加不至直は安羅の人と倭の女性の間に生まれた子供だと思います。

彌麻沙は百済の宮廷で活躍していましたが、彼の主な仕事は両国間の特産物の輸出入をすることではなかったかと考えています。紀国は木材の産出地で大型船を造ることができます。恐らく百済の造船技術を取り入れて大型船を造ったのではないでしょうか。
紀の川を利用して大和と百済の間を行き来したと考えられます。

加不至直については、別の機会に述べて見たいと思います。
 

RE:こだま!!

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2009年11月27日(金)10時01分28秒
  >江田船山古墳の被葬者(3人の内2番目に埋葬され銀象嵌銘大刀の所有者)ですら半島の出自が濃い方と思っています。石棺内に須恵器が入っていたということですから。

※玉枕さま、将にその様に思いますが…。
*私は、半島出自=半島倭人と認識しています。
*言語から言っても、ほんの一例ですが「須恵器」=“쇠기”(soe-gi)=鉄の様な器、鉄色の器、鉄の様に硬い器、ですし…。
※素里奈さんの「江田船山古墳鉄剣銘の秘密」からも、閃いたことがあります。
*目下、暖めているところですが…。古代倭語(九州弁と朝鮮語に臍の緒を留める)で読み解けると確信しています。
 

こだま!!

 投稿者:玉枕  投稿日:2009年11月27日(金)09時39分22秒
  福島さまや素里奈さまからこだまをいただき、旅の課題といたします。

>この石棺を運ばせた原動力は何でしょうね。

福島さま、正にそうですね。このことが解ると当時の列島社会が見えてくるような気がいたします。私は畿内皇統の権力によって石材を運ばせたものとは思っていません。
又、九州皇室の縁(ゆかり)も、どうかな?といったところです。

“ゆかり”と言えば、ゆかりがあったからこそ、半島との交流、関与が当時、多分に九州島にあり、その関係者に同じ石材に眠り「来世も会おう」と願ったかも?何て考えています。

素里奈さまがいつも韓半島との関わり、“根”を取り上げていらっしゃいますが、近現代史と違い、古代においては特に半島南部と倭は同質的な交流、婚姻関係にあったと思いますので、歴史を学ぼうとする人々は日本列島内のみで日本の歴史が展開したとは思っていないと思います。

江田船山古墳の被葬者(3人の内2番目に埋葬され銀象嵌銘大刀の所有者)ですら半島の出自が濃い方と思っています。石棺内に須恵器が入っていたということですから。
 

文中(1)の補足とお断り。

 投稿者:素里奈  投稿日:2009年11月26日(木)23時57分4秒
  (1)カラ語「クン」は本、大などの意で「クンチブ」は本家、宗家、チブは家。

なお、私が「谺」する内容は、皆さまのご研究なさるクラシックな古代史背景とは筋が異なる領域であることは、承知しております。
 

江田船山古墳

 投稿者:素里奈  投稿日:2009年11月26日(木)21時51分1秒
  玉枕様の投稿に谺(こだま)する。

>装飾古墳で注目される菊池川は、この河川が朝鮮半島大陸からの文化の移入口でもあったことが、江田船山古墳の被葬者からも窺えます。

『梁書』には「百済の郡県のような坦魯(カラ語は)「タムロ」とよばれるものがある。それは王の宗族が治めるもので22個ある」と書いてあります。
担魯とは封建制以前につくられていた支配体制で、中央と郡県といった関係ではなく、わかりやすくいえば本店(本国)と支店(植民地・担魯)といった関係の体制でした。支配者は嫡孫以外の者に、最少限の資本を与え、ほかの土地で子会社あるいは支店を出させるのです。高天原から出ていったニニギノミコトやまた、その子孫の神武は同じように担魯づくりの過程を反映しているのです。国内で兄弟喧嘩をするのではなく、嫡孫以外は外の国でくにをつくれというのです。

また『梁書』は、百済は海外活動が盛んで百家済海(多くの人々が群れをなして海上活動をすることの意)の民族であっために海を越えて出でいったのだと記録しています。
ヤマト王朝が百済の担魯で、百済がクンナラ(本国)「クン(は、大)ナラ(元の国)「参照者加筆」と呼んだのもそのためでしょう。『記紀』を筆者たちは百済系の史人(ふびと)で文中、「百済」を「ひゃくさい」とせず「くだら」(クンナラ)(1)としている点にもその根拠を見出します。戦後日本や韓国に来ていたG.I.(米兵)が盛んにstatesideという言葉をつかっていたのと同じです。私ははじめてその言葉を聞いたときはUnited statesのことと誤解しました。本国の意味です。(金容雲教授著『日本語の正体』84頁)

注:先述の金教授の「担魯」は古典では「檐魯」となっている。この「檐魯・たんろ」のことであるが、私見では「現在の菊池川畔の地名の「玉名(たまな)郡榎木原(たまなごおり えのきばる)」の地名の元である。
このこと、拙(江口素里奈)著『江田船山古墳鉄剣銘の秘密』五月書房刊、102頁に詳しいが、この書物、とにかく本を出すことに熱中したあまり、活字化を急いだために、考古学の書物としては、あまりにもレベルが低いので、諸氏の食指・足元には到底及ばず、不釣り合いとされたまま、その内容が幼稚なのもあいまって、無視されても仕方ないと自覚しておるものであるが、この機会に力んで述べると、かの有名な銘文75文字の解明、そして偶然、ここにみるテーマの「檐魯」のことは、図らずも前掲金容雲教授「担魯」説 最新(2009年10月26日)刊と、共鳴・立証されたことは、幸いである。
    蛇足:金氏が「檐魯」を御承知で、「担魯」と描写したのは、きっと出版社の人に、古い漢字は遠慮するように言われたので、簡略な当用漢字を使用したものと想像する。
 

“有明海・不知火海の装飾古墳”

 投稿者:玉枕  投稿日:2009年11月26日(木)17時05分38秒
編集済
  熊本と言えば、注目されるのは装飾古墳でしょうか。
有明海、不知火海沿岸地域は装飾古墳のメッカであることはよく知られています。
改めて資料で確認すると国内の装飾古墳の数は657基あり、その半数の367基が九州に存在。熊本県には196基と全国で最も多く装飾古墳を残している地域になります。
菊池川流域に117基が確認されているようです。

「熊本の遺跡めぐり」では熊本県立装飾古墳館を訪れ、装飾古墳の特徴を間近に観察し、実物見学不可能な古墳の補足とし、「チブサン古墳」で本物の黄泉の世界の彩りを見てみたいと思います。

彩色された石室内とともに注意を払いたい点は“肥後の石室”
この石室が韓国の全羅南道・栄山江流域に分布する前方後円形の古墳の内部にあることはすでに指摘されています。

肥後の石室には、四方に石障(せきしょう)と呼ばれる板石が組まれ、そこに文様を刻み、色を塗っている。
やがてこの石障に代わって石屋形(いしやかた)と呼ばれる開かれた棺が使用され、ここに彩色し、次第に石室全体の壁に装飾が広がっていくと言うことです。

菊池川流域に装飾古墳が集中する理由の一つに、阿蘇熔結凝灰岩が豊富にあり、この岩には様々な硬さの石材があり、石材表面が多穴質であることから塗られた顔料が染み込み、彩色が残りやすいとう点が上げられています。

装飾古墳で注目される菊池川は、この河川が朝鮮半島や大陸からの文化の移入口でもあったことが、江田船山古墳の被葬者像からも窺えます。
 

何だか心配!

 投稿者:玉枕  投稿日:2009年11月26日(木)13時43分49秒
  もう皆様は九州へは何回も遺跡巡りにいらしているのですね。
何だか心配になってきました。人が集まるでしょうか?
やはり著名な先生にご同行いただく旅を皆様は望まれているのかもしれません。

先ほど、宇土市教育委員会に電話して高木恭二氏とお話することができました。
ご案内いただく約束をし訪問先の検討も済ませました。

12月10日の原稿締め切り日までには何とか形をつくりアドバルーン記事を来年1月号には載せたいと思っています。とにかく発車してしまったのでがんばります。
 

遺跡巡り

 投稿者:当世奇妙  投稿日:2009年11月26日(木)12時45分14秒
  会の九州巡りは奥野先生同行で数回行われました。大変な人数でした。
井原の遺跡などは先生がいないと見逃すものであった。
宇野先生のはHPで募集して行った気軽なものでしたが
宇野先生の解説は九州全土やヤマト政権全体の視野からだったので本当に
参考になりました。
ピンク石のみならず九州の石はヤマトの有力勢力の幾つかの墳墓に入っていたのでは?
大王墓のピンク石は今城塚のみで他は小さい古墳のはず?
当時ヤマトの豪族は各地の豪族と結んで自らの勢力を伸ばそうとしていた。
ヤマト中央にも幾つも勢力がありの戦いはかなり厳しかったと予想される。
雄略の時代大伴?は江田船山の首長と結んでいた。倭の五王時代にも九州の石がヤマト
に来てたはず?
調べずにレスしているので間違いあるかもしれませんが。

http://www.npo-rich.jp/modules/tinyd0/

 

ピンク石石棺

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2009年11月26日(木)11時16分5秒
  この石棺を運ばせた原動力は何でしょうね。
※畿内皇統の権力でしょうか。
*私は、九州皇統の縁(ゆかり)を想像します。
 

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