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三角縁神獣鏡と銅鏡100枚

 投稿者:プレアデス  投稿日:2009年11月29日(日)14時51分26秒
  表題の問題は、古くて常に新しい問題でもあるので、今一度考えてみたいと思います。

王仲殊氏は、景初三年(239)銘画文帯同向式神獣鏡を出土した大阪府和泉市黄金塚古墳出土の「画文帯環状乳神獣鏡」が、揚子江流域のがく城西山55号墓出土の画文帯環状乳神獣鏡に酷似していることを指摘されています。私はこのほかにもう一枚、神戸市灘区に所在する西求女塚古墳(西摂津)出土の画文帯環状乳神獣鏡(6号鏡)も加えたいと思います。

西求女塚古墳出土の画文帯環状乳神獣鏡の内区主文と、西山55号墓出土鏡の内区主文は同型鏡と見紛うばかりでなく、王仲殊氏が指摘されている「半円と方格の下の六個ないし四個の小弧文や、方格の上の両角の外側のそれぞれ一つの小さな圏点がある」という細部までも一致しています。

更に西求女塚古墳出土鏡は、呉郡胡陽張元銘鏡にも酷似しています。王仲殊氏によればこの銘は、呉郡の胡陽という所で、姓は張、名は元という人によって造られた鏡だとされています。重要なことは三角縁神獣鏡の中に、張氏作銘の三角縁神獣鏡が存在することです。この事は、三角縁神獣鏡を造った人の中に、呉の胡陽の鏡師張氏その人か若しくは門下生で張氏を名乗っていた人がいたということになります。

西嶋定生氏は、「呉は、西暦233年、将軍賀達が1万の軍士と共に策書、金虎符等を携えて公孫氏に送った」とされています。(『3世紀の中国と日本』 古代を考える 39)。この中に呉の鏡師陳氏だけでなく張氏もいた可能性が十分にあります。何故なら、呉の系統の神獣鏡が楽浪で出土するのは、この鏡を造り得るのは彼らしかいないはずだからです。

西求女塚古墳の中に、三角縁四神四獣鏡(8号鏡)があります。この鏡は張氏作鏡であることが分かります。何故なら、この鏡の銘文に張氏作の銘文に続く「甚大工上有王喬以赤松子」という張氏特有の銘文を持っているからです。張氏作と思われる画文帯環状乳神獣鏡と張氏作三角縁神獣鏡が同じ古墳から出土することは、これらの鏡を同時に貰ったことを示唆しています。

西求女塚古墳出土の画文帯環状乳神獣鏡の銘文の最後に「師」の文字があります。西晋の時代では、師の文字を使うことが避けられていたといわれていますから、この鏡が西晋以前の魏の時代の鏡であったことが分かります。そして卑弥呼の銅鏡100枚のうちの一部の鏡だったことを十分示唆しています。以上のことから、西求女塚古墳が、台与が西晋に遣使を送った西暦266年以前に、古墳の造営に着手していたことも分かります。

吉備の車塚古墳には、画文帯同向式神獣や三角縁神獣鏡と共に、内行花文鏡が出土していることから考えて、三角縁神獣鏡は、画文帯同向式神獣鏡や画文帯環状乳神獣鏡、内行花文鏡、方格規矩鏡などの漢鏡100枚の不足分を補うために造られたと考えられます。なぜ三角縁神獣鏡が選ばれたのかといえば、卑弥呼が魏に遣使を送った時すでに公孫氏の時代に倭がホケノ山古墳や萩原1号墳で出土している神獣鏡を好んで手にしていたことを楽浪太守から聞いて知っていたからだと思われます。                       長くなりましたが以上です。

参考文献
『三角縁神獣鏡』 王仲殊 学生社
『西求女塚古墳 第5次、第7次発掘調査概報』 神戸市教育委員会
 

“女性の単独埋葬”

 投稿者:玉枕  投稿日:2009年11月28日(土)21時57分33秒
  九州地域で興味深い点は女性の単独埋葬が多く発見されていて、それをシャーマンのような存在の女性とみなしている見解があることです。

「向野田古墳」の発掘調査報告書が図書館にあるとのことでしばし、宇土市図書館に立ち寄った。必要なところをコピーさせていただいた。

「向野田古墳」は周知のごとく女性が単独埋葬されている。
調査報告書によると長大な舟形石棺内の人骨はほぼ完形であった。
平面図ではかると人骨の長さは1.45m。身長150cm前後、肩幅32cm、33cm、年令30才後半か40才ぐらいまでの女性。骨盤の部分などから決め手となった。
人骨からみたところ細くて華奢な女性であったと推定されている。

関東の栃木県小山市の「桑57号墳」が同じく30代の女性で、蛇行剣と金銅製冠りが出土している。
会報の4月号にいとな氏が「ゴルフと女王の古墳」と題して小山ゴルフ場でのプレーでは「女王様の静謐と安寧を妨げないよう、心して最終ホールはティーショットが必須」と書かれていてユーモアと知見に溢れた記事が印象深かった。

小山の女王様にはお待ちいただいて、熊本県における女性埋葬の例を探してみると結構あるようだ。
阿蘇長目塚古墳では、前方部竪穴式石室で板石の枕に仰臥伸展葬された1体の8本の歯から年齢35才くらいの女性であることが推定されている。
熊本本西部地区の高城山第3号墳の封土内直葬の舟形石棺に彫りだした石枕に仰臥伸展葬された1体は、ほぼ完全な形で30才未満の女性であったという。

古墳時代において女性が単独で埋葬されている例は熊本県以外でも見つかっているようだ。かつて北條先生は前期古墳の被葬者は、男女の割合を6:4とおっしゃっていた。
古墳に単独で埋葬されている女性はシャーマンのような人物だったでしょうか?!
 

鴨の子?!

 投稿者:玉枕  投稿日:2009年11月28日(土)10時37分10秒
編集済
  トミーさま、
いつも色々、ご提示いただき有難うございます。
私は今回初めて、熊本を旅しました。熊本の地域史に興味を覚えたのは、半島との関係で百済救援に肥後の水軍が活躍しており、かの地の前方後円形の墳墓に肥後型石室を残している事実。(私にとっては、突然、肥後の存在が出てくる感じで、えっ!肥後?)

私は日本の古代史復元に、“大和朝廷”“平定”“進出”と言ったワードを使わないで考えていきたいと思っています。
地域の遺跡の姿はどうなのか? それが文献に見える出来事と、どうつながるかをまず見ていきたいと思います。
そうすることによって7世紀後半に天武がヤマトに中央集権の基礎を作り得たかが見えてくると思っています。
中央から見るのではなく、地域から見ていくことが大切だと思っています。
それによって中央がみえてくる。残念ながら私にとって中央の存在がこの時期、霞の中にあります。

ご指摘いただいた「鴨籠古墳」の有り様も肥後と吉備とのつながりが窺え、大変興味深いです。実際の遺跡を訪ね、地域史の中で鴨籠古墳を眺めたいと思います。

今回、鞠智城跡に専属されている九州の須恵器の研究者、木村龍生氏から高木恭二氏にお願いしたらよいとのアドバイスをうけ、何とか来年の「熊本の旅」も実りある旅を実現できそうです。トミーさまもご一緒しませんか?一人旅がお好きなんですよね?

『考古学研究』56−1に「陶邑編年と九州の古墳時代須恵器について」木村龍生
ご参考まで!
 

九州遺跡巡り

 投稿者:当世奇妙  投稿日:2009年11月28日(土)08時23分11秒
  玉枕さんへ
ご苦労さまです。期待しています。
先ずは「基礎知識としての中・南九州主要遺跡めぐり」ですね。
中・南については一般に案外知見が少ないので良いですね。

http://www.npo-rich.jp/modules/tinyd0/

 

「熊本の旅」はまだ正式公表していません

 投稿者:玉枕  投稿日:2009年11月28日(土)00時38分15秒
  当世 様

 先月10月1日から2泊3日の「山陰の旅」が終了したばかりです。
1年後に「中九州・南九州の旅」を企画しようと思っていましたが、来年の10月には「伽耶の旅」が実施されるようなので、重ならないようにと5月頃に「国内の旅」を企画することになりました。

日程だけは5月20日(木)〜22日(土)と決定しています。
それ以外は今月末の幹事会で案を発表し、新年号にアドバルーン記事を載せていただくことになっています。まだ正式にこの旅のことは公表していません。
しばし、お待ちを!

現在までほぼ確定(玉枕の独断)していますのは鞠智城跡(主任学芸員・木村龍生氏)
熊本県立装飾古墳館(4月の配置で変更ありとのことですが学芸員の解説依頼済み)
チブサン古墳・江田船山古墳・和水市立博物館・阿蘇外輪山・草千里
塚原古墳群・城南町歴史民俗博物館(高木氏より金田氏を紹介済み。ここで熊本の弥生時代の鉄器関係の展示があるとのことでその辺の説明をお願いできるとのこと)
楢崎古墳・宇土市立図書館資料室・鴨籠古墳・向野田古墳・阿蘇ピンク石きり場跡(高木恭二先生)宇土マリーナ(実験考古学での古代船があるとのこと)有明海から不知火海車中・人吉盆地・大村横穴群・才園古墳群・熊本市立博物館・熊本城・
以上が候補です。これから時間配分で可能なコース選定をしてみます。
 

高木恭二さんにお会いされたら

 投稿者:トミー  投稿日:2009年11月27日(金)22時44分20秒
編集済
  玉枕さん 東奔西走 ご苦労様です。
不知火の鴨籠古墳が、吉備の造山古墳陪陵の千足古墳と似て、石障があり直弧文がついていることで、その共通性に興味がありますね。 鴨別は笠臣の先祖で岡山の笠岡が本拠として船の舵取りという説がありますね。吉備から有明海に進出して九州を平定し、当地の土豪と結ばれて生まれたのが鴨籠古墳の主なんでしょうか。舟形石棺と石枕があるのですか。

面白いのは、日本書紀に”火の君は筑紫の君の児で、火中君の弟”とありますが、この筑紫の君は磐井の乱の首謀者で朝廷に逆らい、火の君は朝廷側について乱の後に、糸島半島に、唐津に進出したとされています。

火の君は肥の君に名を変えます。本来は肥国の首長一族として、肥後の八代郡(現在の八代市宮原)に本拠を置くとされています。糸島郡の交通の要衝、引津トマリで欽明朝に百済王子恵を擁護して百済に戻した海の集団の首長。奥野会長の書かれているように、鉄の宅蘇吉士とのつながりも深い。

私は良くつかめないのは火中君です、菊池川の豪族らしいのですが、火の君との関係が分かりません。火葦北君も不知火でしょうか?阿利斯登が百済官僚(子供が日羅です)として派遣されます。

葦北の君阿利斯登、火(肥)の君、火中君、筑紫君磐井との間の勢力地図を知りたいのですが。

なお、江田船山古墳については、慶北大の朴天秀さんも、”加耶と倭”の著作の中で、5世紀後半は大伽耶の文物を占め、6世紀前葉には百済の文物に切り替わると指摘されています。

手元に、肥後型石室の成立という論考があります。中に、石障系横穴式石室の詳細は高木恭二氏(宇土市教委)が詳しいと書かれています。

明日お会いになるそうですので、お訊ねいただいてお教え願います。

有史会で窺った、千賀久先生の九州の横穴式石室との関係もありそうです。鴨籠古墳は肥後型石室とは違うようですが


お忙しいところ、無理なお願いをいたします。
 

九州遺跡巡り

 投稿者:当世奇妙  投稿日:2009年11月27日(金)21時40分28秒
  玉枕さん
大変盛り上がっていますね。
そこで確認です。もう一度以下をお願いします。
1.日程
2.目的
3.主要遺跡
4.案内・説明者
宜しくお願いします。

http://www.npo-rich.jp/modules/tinyd0/

 

皆様

 投稿者:玉枕  投稿日:2009年11月27日(金)20時25分54秒
編集済
  ちょっとした旅の報告で、皆様からこのような知識をいただけることに感謝いたします。

本命の遺跡巡りはこれからです! 幸運にも自ら「石棺のオタク」とおっしゃっている宇土市教育委員会の高木先生のご案内をいただけるのでしっかり質問してこようと思っています。

「熊本の古墳からみた江田船山古墳」と題して先生は「1回目の埋葬時の遺物には朝鮮半島、特に大伽耶系のものが多く含まれている。銀象嵌銘鉄刀は2回目の埋葬に伴うもので、これは百済地域、特に陶質土器の存在などを考えても全羅道地域を含む半島の西南部地域の勢力との関係が窺える」とおっしゃっています。

この陶質土器あるいは須恵器であれ、古墳のまわりに置く事はいっぱいあるが、墓室の中に入れる習慣は日本列島にはなかった、これは韓半島の習慣とのこと。

江田船山古墳が整備されている和水町歴史民俗博物館の電話番号をナビに入力!間違いなく目的地に行けると思いきや、ナビが「目的地周辺に来ました。音声案内を終了します」
えっ!待って!無い無い古墳?目的地周辺? 何と菊池川の対岸に案内されてしまった。
周辺は周辺だった。向こうまで行くには戻るしかない!そうこうしている内に閉館時間?
確か、無人と聞いている行こう!苦労してたどりついた江田船山の被葬者、「遅かったじゃないか」「よく見ていけ」とはおっしゃらなかったが「妻入りの横口式の家形石棺」感動した!
 

須恵器の語源

 投稿者:素里奈  投稿日:2009年11月27日(金)16時41分24秒
  以前にも似たようなことを述べたことがあるので、一部重複するが “すえき「須恵器・陶器」古墳時代後期から奈良・平安時代に行われた、大陸系技術による素焼の土器。良質粘土で成形にはろくろ・・・(広辞苑―以下省略)。

須恵器の語源を、私見ながら庶民的に記す。
須恵器の語源:−【鐵】「tShᑐl」「名」音読み チョル・철 訓じて スェ・쇠、器キ・기は 日韓共通(所帯道具にする器)쇠기・スェキ 割れない長持ちする土を成形して焼いて食器にした。含まれている鉄分をより均等に含ませる方法として手もみから、麻袋のようなもの、進んで木綿袋に入れて飽きるほどに踏む方法へ、さらに進んで轆轤を回して煉る方法へと改良された。(ここまで私見)。

“五世紀に入ると、列島の各地に新たな文物が登場する。称して須恵器(スェキ・そのまま伝播して名称化―参照者加筆)とよばれる固く焼きしまった土器。大阪府堺市の陶村(すえむら)や福岡県夜須(やす)町の小隈ではこの時代からそれを焼いており、島根県安来市の高畑古窯址や名古屋市の東山窯址などが知られている。須恵器は、手でこねてつくり七、八百度で焼きあげる従来の土器(弥生土器や土師器「はじき」)とは、技術の上で革命的ともいえるものである。

またロクロ(轆轤)の遠心力を利用して大量生産されるばかりでなく、規格品も製造可能。登り窯だと千二百度以上の還元炎で焼くこともできる。水をはじき、割れにくい丈夫なスェキ[須恵器]になる。(中略)日本各地に今も須恵・須江・陶(すえ)・末・主衛の地名が千数百ヵ所も残ることとなったのである。
『日本書紀』(四六三)条に、新漢陶部高貴(いまきのあやのすえつくりのこうき)、鞍部賢貴(くらつくりのけんき)、錦部定那錦(にしごりあんなこん)他数名らが百済から渡来したとある。”    “〜”は(李進熙氏の『日本文化と朝鮮』NHK Books  より。

 蛇足:人名で、「陶山」(すやまさん)があるが、おそらく先述李教授が述べた・『書記』参照にみた渡来人の後裔とおもわれる。
 

倭と半島の間の婚姻関係

 投稿者:プレアデス  投稿日:2009年11月27日(金)15時18分43秒
  6世紀前半の欽明期には、倭と半島との間に多くの婚姻関係が生まれていたことを表す記事が日本書紀に記載されています。紀臣奈率彌麻沙や加不至直などです。彌麻沙は紀臣と百済の女性との間に生まれた子で、加不至直は安羅の人と倭の女性の間に生まれた子供だと思います。

彌麻沙は百済の宮廷で活躍していましたが、彼の主な仕事は両国間の特産物の輸出入をすることではなかったかと考えています。紀国は木材の産出地で大型船を造ることができます。恐らく百済の造船技術を取り入れて大型船を造ったのではないでしょうか。
紀の川を利用して大和と百済の間を行き来したと考えられます。

加不至直については、別の機会に述べて見たいと思います。
 

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