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古代の宇陀郡は大宇陀がその中心地であったという。
今回の宇陀への訪問は榛原から伊那佐山(637m)を中心に広がる谷間に存在する野山遺跡(水銀朱の加工生産遺跡?)や二重口縁壺祭祀を行っていた台状墓が見つかっている大王山古墳の場所を確認することにあったが、思いかけず昭和の時代までこの周辺で辰砂の採掘と水銀製錬を行っていた会社の存在を翌檜氏が調べてくださり、そこへも行くことができた。
その帰り道、女寄峠を通る道が、朱が運ばれたルートであり、その道を進むと桜井茶臼山古墳がその姿を側面から全貌を見せる位置にあることも知る事が出来た。
桜井茶臼山古墳の立地が東海を視野に見つめる古墳であることはすでに指摘されている。
そして初瀬の谷からの道が名張、東海地域へのルートであることも周知のことであった。
今回、大量の朱の存在が宇陀と結びつき、宇陀の地が奈良盆地と東海を繋げる位置にあり古代から重要な地であったことを再認識した。
現地説明会の翌日、橿原考古学研究博物館の資料室で『榛原町史』を閲覧し、古代の榛原について調べていたら奈良朝前期において宇陀の郡家が現在の榛原付近であり、大宇陀から榛原付近を通り、大野から名張に至る交通路があったことが再確認できた。
そこで『町史』は崇神天皇が宇陀の墨坂の神を祭ったという記紀の記載が単なる伝承としての意味以上のものが考えられてくると書いている。
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