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玉枕さんの行動力に便乗、ご一緒させていただきました。
以前、橿考研主催磐余の古墳探訪で立ち寄った時と古墳の趣がガラっと変わっていて驚きました。当時は松林の間に灌木が生い茂り、雨降る中、後円部の畦道に取りつき号令いっか、その灌木の合間の笹竹をかき分け、墳頂めざし進んだことを思いだします。引率者のこの下に石槨がありますよの声に、参加者が一斉にその場所に移動、倭国大王級の葬送儀礼がどんなものか、今にも手で墳頂の土をかき分け、石槨の一端だけでも見たいと思ったものです。
ところが今回、橿考研が再発掘したとか。再発掘の為の足場が組まれ、ブッシュ灌木が刈り取られ前方部の背に作業路を兼ねた小道が整備されていた。前回忘れたスコップを橿考研がお膳立て、墳頂に上がると赤く染まった素晴らしい石槨が目の前に飛び込んで来ました。二度目にして思いが通じる幸運に感謝。
何かと批判もありますが、佐倉・歴博に歩調を合わせるかのように再発掘、今回の力の入れようが推し量れます。さて、どのような時代観、被葬者像が浮かび上がるのか正式報告が楽しみです。しかし残念ながら、現地ではカラー仕立てのパンフレットの配布のみで学芸員の説明はなく、石槨をグルリと一周するだけの見学者の想像に任せた見学会になっていたが、これはこれで夢・想像が膨らんで面白い。
一周する間に観察。板石積石槨と天井石全てに水銀朱が塗られているが、パット見では、大きな水銀朱の池に使用石の悉くを潜らせたような塗布の仕方にビックリ。また、複数の覆土の1層が粘土ではなく、粘土にベンガラを練り混ぜ突きん棒で固めた層が遺存していた、墳丘の段築工法の流れなのでしょう。
天井石は中ほどの一つ(幅50cmほど)が隣の石に乗り上げて石槨内が覗ける状態にあり、この穴が戦後まもなくの盗掘穴とのこと。前述の私の手掘り妄想宜しく、実行した人がいたんだ。当時は、文化財行政の甘さにつけ込んだ一攫千金野郎が横行していたのでしょうね。
河上邦彦氏によると、木棺の上に、うろこ状に鏡の破片が敷かれていたそうな、盗掘屋が手ですくいかためて置いた痕跡があり、鏡数で100枚は下らないであろうとの認識。先日、どなたかが投稿されておられた鏡面100枚以上副葬は河上氏論に通じる数量でした、どなたかは失念しましたがさすがです。もっとも、この100枚相当眉つば黒塚ほどの大きさで34枚の鏡、茶臼山は凡そ3倍の大きさゆえに100枚は下らないであろうとの単純比較。しかし、これ相当真面目っぽく説かれていたのである程度(棺身を魚に例えると鱗の数は相当数、数える事になる)の確信はあるのでしょう(昨、11月1日・市民講座にて)。
この天井石、3枚の産地が判明していたがその内1枚が淡路島近傍の沼島産(奈良新聞より)、もう一枚は古墳近傍の石、残る一枚は不明(カメラで撮ってあるが文字が読めない)全部をご報告できずまことにすみません。今年6月に発表のありました、列柱穴や二重口縁壺の痕跡は見れませんでした、現説図ではどうも見学者用足場が邪魔して見えなかったのかもしれません。奈良新聞記事では見学会が終われば埋め戻されることになっている、とあります。60年ぶりの雄姿も再び黄泉の世界へ旅立ちですが、これで被葬者の周囲を騒がせた発掘騒動も終わり、被葬者の御霊も再び安寧を得るでしょう。
今回、見学を終えた午後、被葬者の探索は措くことにして桜井茶臼山古墳に撒かれているとする、榛原・宇陀野の朱を求めて現地へ。玉枕さんご指示の大王山古墳、野山古墳群を探索、残念ながらその地と思われる位置に立つも、両古墳ともピンポイントの確たる証しなくその地が古墳立地場所とはいかなかった。最後に朱が取れたとする宇陀野・平沢の大和水銀採鉱所を訪ねた。この地から街道沿いに行くと茶臼山に通じるとのこと。朱の処理集落と辰砂鉱山と消費地、地産地消現在に通ずる効率の良さに降参、以後天神山古墳等に引き継がれることになる、悪霊を防ぐとされる水銀朱の産地宇陀野と、大やまと古墳群発祥との関わりは案外このような簡単なことが引き金だったのかな、とあらぬ妄想m(__)m。
このあたりの地下一帯は大和水銀鉱床の宝庫と一書(宇陀の水銀/市毛薫氏)に、大和水銀採鉱所はつい昭和まで操業されていたが今は廃坑閉鎖となっている。現在でも閉じられてはいるが採掘入口が現存し、採鉱時の辰砂混じりの汚泥水を分離したのであろうか沈泥槽も現存。このあたりの地下は坑道が張り巡らされているとのことだが、石見銀山ならぬ宇陀野水銀鉱山として整備されれば古墳関連観光資源としての活用もありそうだ。
ところで、現地パンフレットでは遺存されておりましたコウヤマキ木棺、この木棺の中央及び辺材が現在の工具でもって切り取られているように見受けられます。前回の発掘が昭和24年の事とされているので、当時としては各種の科学的分析に必要な手段だったかも知れません。たまたま、先日の出雲の旅で確認をしたのですが、昭和47年発掘の神原神社古墳出土の景初3年銘三角縁神獣鏡に見られる人工的欠損(割れ目)に共通する仕儀と思われる。多分、今ならきっと発掘担当者の、国民の共有財産である埋蔵文化財への取り組みの姿勢が問われる事例であったろう、と思います。
現地報告に程遠い内容になりましたが、玉枕さん記事と併せてお読みいただければ幸いです。
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