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会報

 投稿者:当世奇妙  投稿日:2009年 7月 3日(金)22時41分33秒
  玉枕さん
ありがとうございます。
 

大伽耶の位相

 投稿者:玉枕  投稿日:2009年 7月 3日(金)20時22分21秒
編集済
  479年、加羅国は国王荷知が南朝、斉に使いを送り官職を授かっている(南斉書 東南夷列伝 加羅国條)
高句麗や百済とともに当時、南朝に対して除正していた加羅地域のことは、最後まで一つに纏まる事はなく、割譲され消滅していったと思っていた。
その地域に倭が何らかの係わり合いがあったことは周知のことである。

今回の「アジア史学会」では、大邱韓医大学教授の金世基氏から高霊池山洞古墳群から大伽耶の位相を紹介いただいた。

慶尚北道高霊郡高霊邑池山里郷。私は訪れたことがないので、映像紹介は大変参考になった。
伽耶山とその源流である河川が高霊平野を形成している。この平野を見下ろすように高霊の鎮山から延びる稜線上に古墳が点在している。
池山洞古墳群は伽耶最大の古墳群で大伽耶の王陵と王族の古墳と位置づけられている。

注目されるは、ここから『三国史記』に記録がある“殉葬”の事実が確認されたことだ。
44号墳では中央の3基の石室を取り囲むように32基の殉葬槨が、45号墳からは2基の石室と11基の殉葬槨が検出されている。
映像でみる発掘された当時の遺構は衝撃的だった。中央を取り巻く石槨に目が釘付けになった。これが殉葬墓!!
殉葬者はこれだけではなく、主石室の主人公の頭部と足部分に一人ずつ、副室の南石室、西石室にも一人以上埋められていて総計36人以上。

出土遺物は盗掘され限られているが、伽耶の冠帽は現在、高霊を中心に大伽耶地域に限って出土していて、そっくりさんが日本の福井県二本松古墳出土の金銅冠であることはよく知られている。
大伽耶の国邑だった高霊池山洞古墳群の規模と出土物は大伽耶が国家の位相をなしていたことを裏づけるに十分な遺構。

大伽耶は国際舞台に進出してから古代国家として成長し、530年代の新羅の膨張政策で再び分裂するまで50年間、古代国家として存在した。
531年、日本では欽明が即位してますね。リンクしているでしょうか!
 

Re.会報432

 投稿者:玉枕  投稿日:2009年 7月 3日(金)08時25分20秒
  会報の残部、私が持っておりますので早速送ります。
明日か明後日にお手元に着くようにいたします。
7月号の予備は20日の講演会の受付に置きますのでご自由にお持ちください。
 

会報432

 投稿者:当世奇妙  投稿日:2009年 7月 3日(金)07時10分32秒
  6月発行の会報432余っていたら20日の講演会の時にもらえませんか?
私の分は冨樫先生にあげてしまいました。
 

大伽耶(加羅)の除正

 投稿者:玉枕  投稿日:2009年 7月 2日(木)23時43分11秒
編集済
  基調報告をされた小林敏男先生は「倭王武の時代の対外関係と稲荷山鉄剣銘」と題し、主に対外関係を報告された。
「倭五王」の時代は唯一、半島に深く関わった時代で、冊封関係に積極的に関わったのは倭の五王だけである。五世紀の倭の時代は軍事政権だったと小林先生はよむ。

450年頃は高句麗の南下が活発になり、「済」と「武」の時代には対高句麗との戦争を準備した時代と言われる。
しかし、倭の5人の王のことは『日本書紀』は語っていない。
何故、日本書紀の編者は『梁書』を読んでいるはずなのに倭の五王のことを記載しなかったのだろうか?

5世紀段階から栄山江流域には、ヤマトノミコトモチやホズミノオクラなど国籍のない時代ゆえ、韓子(合いの子)などの倭系の軍人がいた。
彼らは半島南部の交易拠点、軍事拠点にいてどのような動きをしていたのだろうか?

大陸の北方民族の南下とともに高句麗も南下、北魏に攻められないよう北魏と交渉、南朝には除正した。百済は高句麗に阻まれて北とは朝貢できず、南朝と交渉し除正を求めている。
注目されるは、加羅国王も南朝に対して除正し、認められている。

倭も倭隋以下13名と倭済以下23名が除正して軍郡の将軍号を得ている。
ここに半島で軍事活動をしている倭を名乗る人々がいる。

『日本書紀』が語らなかった当時の「倭」の動きは『好太王碑文』の出現でさらに明らかになる。
加羅(伽耶)が滅亡し、6世紀以降、倭は南朝には通貢していない。半島からも引き上げている。

昨年、奈良に旅した時、曽我川が流れるブドウ畑の中に飛鳥部神社を見つけた。
昆支王が祀られていた。

河内王朝を形づくる人々、武内宿禰を祖とする人々の列島での存在が注目される。
 

アジア史学会より

 投稿者:玉枕  投稿日:2009年 7月 2日(木)16時53分15秒
  上田正昭先生の記念講演では先生がこれまでに主張されてきた「倭国から日本へ」の7・5・3論争において、「日本の国家の成立を何時とみるか?」の論拠が稲荷山鉄剣銘文に刻まれており、大和朝廷の成り立ちを考える上で稲荷山鉄剣銘文は重要としている。

5世紀にすでに倭国は“治天下”の思想が成立しており、5世紀の王者は“ワケ”を名乗り、やがて大王家のみが“ワケ”を独占し、その他は“オミ”とか“キミ”を名乗っていたことが判り、氏姓制度の萌芽が見える。

“杖刀人”とか“典曹人”のような官人がすでに存在し、官人組織を含む府中が整備されており、5世紀には内廷と外朝が成立していたと見る。

朝鮮半島の金石文には「中」が多く使われており、江田船山古墳出土大刀銘文には書者が張安と書かれており、稲荷山鉄剣銘文も朝鮮半島から渡来した渡来人の可能性が高いとされる。
それにしても稲荷山鉄剣銘文は“漢字を使った和文”ですよね。漢文ではない。
倭の上表文はもちろん“漢文”江田船山古墳大刀も“漢文”。
稲荷山鉄剣銘文は私にも読めて意味も通じる。辛亥年471年にすでに読み下し文が存在していたことに驚いています。
 

Re:高部30号墳

 投稿者:いとな  投稿日:2009年 7月 2日(木)15時36分59秒
  玉枕さん、近江と高部の情報有難うございます。
数年前、高部古墳群に行きましたが高台にあった墳丘は宅地造成により消滅。無残!!
もう7月、暑い季節に手焙りは要らないのですが、ツチノコさん時間がありましたら、応答願います。
 

高部30号墳

 投稿者:玉枕  投稿日:2009年 7月 1日(水)19時47分58秒
  前方後方墳の故地?と言われる滋賀県の湖北・湖東。滋賀県能登川町の神郷亀塚古墳(3世紀前半)からも手焙形土器片が出土しているようです。
千葉県の高部30号墳から出土した手焙形土器は近江地方に見られる形で在地の土とは違う土で作られており、搬入土器であるのに対し、高部32号墳の手焙形土器は在地の土で作られているようです。
ツチノコさん(かつてのハンドルネーム=高部30号墳)から教えていただきました情報です。お名刺も手焙形土器の写真、ハンドルネームも!お詳しいと思います。
お時間が取れましたら投稿いただきたいですね。
 

トミーさん多謝多謝

 投稿者:いとな  投稿日:2009年 7月 1日(水)15時47分43秒
  さっそく手あぶり形土器についてのご教示有難うございます。大変参考になります。
遼寧省からの移動民のことは、当日トミーさんが北燕滅亡に関わる内容に強く関心を持たれているご様子だったので触れたまでです。私の方はほとんど白紙に近い状況です。アウトプット無しで申し訳ありません。
 

Re:アジア史学会

 投稿者:トミー  投稿日:2009年 7月 1日(水)15時08分15秒
編集済
  いとなさん 楽しい快気炎でした。鼎談ならもっと話が弾みましたでしょうね
>津寺遺跡から出た「手あぶり形土器」について、拙宅の貧弱な蔵書では確認できませんでした

手元に、高橋一夫 著 〔古代東国の考古学的研究〕六一書房 があります。

それによると。火鉢に似た形の手焙形土器は、大阪湾沿岸地域で出現し全国で740体あります。

煤がついているのが92体で火を燃やして使う農耕祭祀用とされています。

足守川流域の5つの遺跡からは81点が出ています。

内訳は・・・・津寺遺跡37点。加茂A7点・加茂B遺跡 28点。矢部南向遺跡8点。

政所遺跡1点です。

足守川流域の手焙り形土器は、バリエーションが多いそうです。

在地形手焙り形土器と非在地の他地方で流行した器形と文様のものがあります。

たとえば覆部に綾杉文を持つものは近江や山城との交流を物語るとされています。

翻って、足守川流域はいとなさんが大変な興味をお持ちで、私も、弥生後期の2世紀ー3世紀初めの、上東遺跡の波止場と製塩土器、纏向古墳の祖形である楯築墳墓、吉備甕の工房のあった津寺に関心があります。

いとなさんが詳しくお調べのように、吉備甕は250−350年に津寺から西は福岡の西新へ東は河内から大和川沿いに柏原・船橋から纏向まで広がっています(奈良文研の次山淳先生の研究)。

手焙り形土器は、2世紀後半から4世紀はじめの約150年間に亘り存在するようです。

大和川流域の大阪府八尾の小阪合遺跡から3世紀の手焙り形土器が2008年4月に発見されました。

覆部に鹿と船が描かれています。農耕祭祀用とされています。千葉県の神門3号と高部30・32号にも手焙り形土器が出ています。

いとなさんは、遼寧(遼西・東)から倭国への民の移動に関心がおありだそうです。

開陳いただけませんか。
 

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