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>その古四王神社の立地ですが当時は湊であったところではないかと思われますがどうでしょう?
→古いものほどそうだと思います。
>環日本海文化の路筋、慎粛・靺鞨などと表記された北海道北部・樺太・沿海州の人々との交易や越・佐渡・若狭・丹後から船出する近畿地域との中継地として重要な地点だったのかもしれませんね。社殿が北面と西面していることも関係してくるのかもしれません。
→ごもっともです。
>古四王神社の多くが四天王を祀る寺院や堂社であり、寺内の古四王神社も神体は毘沙門天(多聞天・・北方)であったと伝えられているようです。
→中世はそうだったかもしれません。近世になるとかなり変わっているのではないでしょうか。今たまたま南部藩領三戸郡の修験道(山伏)の資料を読んでいるところですが、天台宗三井寺から許可状を受けている戸来村(キリストの墓のあるところ)の多門院というのがこのあたりの山伏のボスでした。税を納める山伏たちは神社の別当を兼ねています。その名称をみると(寛政元年で)、御三岳別当1名、八幡別当10名、観音別当8名、神明別当5名、毘沙門別当1名、稲荷別当3名、新山別当3名、今熊野別当1名、熊野別当1名、不動別当1名、明神別当3名、保呂別当1名、白山別当1名、若宮八幡別当1名、千曳別当1名、稲荷別当2名、不明5名、となっています(名称のみから数えましたが、たとえば、新山は新山明神のことで明神社と同じになる)。中道 等『十和田村史』(昭和30年)参照。
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