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桜井茶臼山古墳の石材

 投稿者:プレアデス  投稿日:2009年11月 7日(土)13時56分41秒
  討論室で玉枕さんといとなさんが、桜井茶臼山古墳の石材に就いて語られていますが、文献によりますと淡路(島)と大和は大変深い関係にあります。大和の国造は淡路の出身の海人だったと考えられます。このことを考えれば、淡路の人々の古墳は奈良盆地にあると考えられます。最も可能性が高いのは、大和古墳群中の萱生古墳群にある東殿塚古墳や中山大塚古墳です。これらは、玉枕さんが関心をお持ちになっている鶴尾神社4号墳とも関係が深かそうです。このように考えれば淡路の近くから石材を運ぶことはそれほど難しいことではありません。他の石材も淡路ー大和のルート上です  

二重口縁壷祭祀

 投稿者:プレアデス  投稿日:2009年11月 6日(金)23時27分32秒
  それぞれの方が、いろいろと花を咲かせていただいているようです。それぞれの方の更なる論考の発展を期待したいと思います。  

列島の交流仮説

 投稿者:当世奇妙  投稿日:2009年11月 6日(金)20時40分5秒
  弥生終末の日本列島では北海道、東日本、東北、沖縄、南東諸島はどうでしょうか。
北九州から東海までを見てもその範囲での平準的な交流があったとは思われません。
やはり先ず各地域内の交流があり、次に地域を越えた交流があったと思われます。
地域連合も一挙にヤマト政権範囲になったのでは無く、幾つかの連携・連合が複雑に
かみ合ったのではないでしょうか。私は邪馬台国・伊都国によって停滞した瀬戸内
ルート復活のために吉備・播磨・東海・ヤマト・瀬戸内東南部が連合したと予想しています
。それに豊後・豊前が参加し、次いで奴国が参加していったと予想しています。
地域間の交流の動きのダイナミズムの分析こそが初期ヤマト政権成立の動き解明と
思われます。

http://www.npo-rich.jp/modules/tinyd0/

 

古墳出現期の列島社会

 投稿者:玉枕  投稿日:2009年11月 6日(金)12時51分43秒
編集済
  >特殊器台形祭祀より早く奈良盆地に定着した別の祭祀形態だと考えています。(プレアデス)

今年度の桜井茶臼山古墳の調査により、これまでの数次における調査報告と合わせて、奈良盆地に出現した初期、巨大前方後円墳の中身が明らかになりつつあるように思います。
先日、提示した大阪大学考古学研究室からの『桜井茶臼山古墳の研究』において茶臼山古墳の墳丘のあり方が確認され、それをもとに澤田秀美氏が述べている論考は大変興味深く読ませていただきました。

プレアデス氏が二重口縁壺を墳丘の埋葬部のまわりに置く祭祀は特殊器台祭祀より早く奈良盆地に定着した別の祭祀形態だと考えますとのお考えは、茶臼山古墳が如何に成立したかを考えていく上で築造技術からも吉備の特殊器台を用いた系譜とは分かれるようです。

前方後円墳の成立を考える議論が専門家の先生方によって集約されてきたように思います。
根幹はやはり東瀬戸内の鶴尾神社4号墓から派生し箸墓系列と桜井茶臼山系列に分かれて五社神古墳までに発展していく過程がみえます。
桜井茶臼山古墳の成立に南丹波の黒田古墳の築造をもって可能だとの氏の指摘は、山城の椿井大塚古墳との類似性からも興味深いお考えだと思います。

そうなりますと、時代は弥生時代終末期、西暦200年代にこうも広範囲な人の移動、交流が可能な社会は、『魏志倭人伝』を当初読んだ、列島社会のイメージとは程遠い社会であったことを認識させられました。
 

桜井茶臼山の再評価

 投稿者:翌檜  投稿日:2009年11月 6日(金)08時55分53秒
編集済
  四国・高知に行ったついでに足摺から宿毛・宇和島へと足を伸ばした。対岸、宮崎との距離感を体感したかったが対岸は遥か彼方、海面上での目視は難しそうだった。「魏志倭人伝『女王国東渡海千余里復有国皆倭種』に関連して」

>翌檜さん!今度は西峠へ向かわなければ!やはりもっと高い所、坂を登らねば!

まったくその通りですね。伊勢湾との分水嶺は国見山の南側でした、伊勢湾に流すには若干高さがたりなかったようですね、申し訳ない。オットー分水嶺の話ではなかった!墨坂ですね調べておきます。トミーさん天井石を含めてご教示有り難うございました。

ところで、菟田野の水銀朱。名張川から木津川へならより好都合、椿井大塚山古墳に朱10kg+αの搬入はたやすそう、また、街道筋女寄峠経由で桜井茶臼山へも一本道。椿井大塚山古墳と、石槨構造の類似性や2重口縁壺の器形の共有も水運でつながっていれば理解できる。椿井大塚山古墳・桜井茶臼山古墳・ホケノ山古墳及び箸墓古墳が二重口縁壺を祭祀道具にする集団であるのは間違いない。内、椿井大塚山古墳・桜井茶臼山古墳・ホケノ山古墳の石槨に朱が塗られ、椿井大塚山古墳では朱が混ぜられた粘土も使用されている。茶臼山も破鏡ですが大量の三角縁神獣鏡を保有する可能性がある、とする。

プレアデスさん
>特殊器台形祭祀より早く奈良盆地に定着した別の祭祀形態だと考えています。

今回の茶臼山古墳の再発掘で新たな系列が模索できるような気がいたします。勉強になります。
 

Re.桜井とメスリ

 投稿者:玉枕  投稿日:2009年11月 5日(木)21時03分37秒
  お答えいたします!
箸墓に近い方が桜井茶臼で国道沿いにあります!周りは住宅に囲まれていて、普段は前方部にはフェンスがあり上れません。後円部から上ることになり、かなり急です。当たりです!
メスリは季節によってですが多分、柿でしょうね。
 

桜井とめすり

 投稿者:当世奇妙  投稿日:2009年11月 5日(木)20時45分24秒
  両古墳には数度行きましたが今では区別が定かではない。認知症か!!
箸墓に近い方が桜井茶臼山でしたか?大きな道路沿いだった。
さすれば住宅地を巡る急峻な傾斜の古墳ですね。
もう一つのはミカン(柿か?)の畑ののんびりした古墳でした。
玉枕さん!どっちか教えてください。

http://www.npo-rich.jp/modules/tinyd0/

 

遺跡見学会のお知らせ

 投稿者:東風翁  投稿日:2009年11月 5日(木)20時21分50秒
  場所   さいたま市西区指扇   JR川越線 「西大宮」駅北西約500メートル

内容   縄文中期〜後期   弥生後期(方形周溝墓五基)  ガラス玉31個

日時  11月7日(土) 10時30分 現地説明会

見所  方形周溝墓が東京近辺で見れる事、ガラス製品が青色と聞きましたので鉛ガラスかもしれません。
      或いは カリガラスならばペルシャの技術が伝播したかもしれません。関東にどんなルートでもたらされ
      たか興味ある遺跡です。埼玉方面に住んでいる人は大変参考になると思います。
 

遺跡見学会のお知らせ

 投稿者:東風翁  投稿日:2009年11月 5日(木)20時03分26秒
  場所   さいたま市西区指扇   JR川越線 「西大宮」駅北西約500メートル

内容   縄文中期〜後期   弥生後期(方形周溝墓五基)  ガラス玉31個

日時  11月7日(土) 10時30分 現地説明会

見所  方形周溝墓が東京近辺で見れる事、ガラス製品が青色と聞きましたので鉛ガラスかもしれません。
      或いは カリガラスならばペルシャの技術が伝播したかもしれません。関東にどんなルートでもたらされ
      たか興味ある遺跡です。埼玉方面に住んでいる人は大変参考になると思います。
 

“古代の墨坂は何処?”

 投稿者:玉枕  投稿日:2009年11月 4日(水)21時15分41秒
編集済
  近鉄大阪線の榛原駅で下車して墨坂神社まで徒歩で行ける。
現在は宇陀川の対岸に鎮座しているが『榛原町史』では、墨坂神社が延喜式の神名帳に記載がないにもかかわらず、781年には成立している。又、古事記伝は墨坂神と宇陀水分神社との同一性を主張」とあり、現在の宇陀川対岸にある墨坂神社は、元来の墨坂神社の社地ではなく、以前は西峠の古い坂道を墨坂であると古老は伝え、天の森から天の野に遷座したと書いてあった。

翌檜さん!今度は西峠へ向かわなければ!やはりもっと高い所、坂を登らねば!
でも長年の課題、神武東遷神話で再度、宇陀へ訪問されるなら伊那佐村高塚八咫鳥にある「八咫鳥神社」は道路に面して石鳥居見えましたよね。
この神社の成立は続日本紀に705年とあり、『記紀』編纂より前ですね。
宇陀地方に先祖を鳥とするような伝承があったのでしょうか?
『新撰姓氏録』では八咫鳥は建津之身命の化身であり、かつ山城鴨主殿県主部の祖先であると。

文献の研究は苦手ですが、私が注目したいのは「宇陀の地」と「山城の地」、「桜井茶臼山古墳」と「椿井大塚古墳」との関連。
何はともあれ、宇陀の地からヤマト政権成立初期の中心地が磯城・磐余の地に進出したという記載の意味と古墳の存在が結びつくのだろうか?
 

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